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ほわぁ、とピンク色の溜め息が聞こえた。
駒形さんは今日もカウンター越しにうっとりと鷹塔を眺め、胸の前で両手の指を組み合わせて立っている。
「イケメン読書家さん、最近よく来ますね」
見たままの安易なネーミングに、鷹塔戒という名だよ、と言えずに俺は苦笑を返す。
鷹塔はまた仕事帰りの来店らしく、窓際のテーブルにアイスコーヒーを置いて熱心に本を読んでいた。
駒形さんのラブラブ光線には無反応なのに、時折前触れもなく本から顔を上げてこちらを向くから、そのたびに俺は目を逸らし、視線が絡むのを避けなければならず、慣れ親しんだ自分の職場なのに落ち着かない気分を強いられる。言いたい事があるのなら率直に声に出した方が互いに気が楽になると思うのだが、鷹塔はなぜかいつも注文以外の言葉を口にしない。
「あ! 都波さんも溜め息つきましたね。イケメン読書家さんに、どきゅんですね」
お客さんに聞こえないように声を潜めてはいても、駒形さんのテンションは高いままだ。何だ、どきゅん、って。俺は女性と同じ視点で鷹塔を見ているつもりはない。
「あ、イケメンさん帰っちゃう」
シンクに向かって洗い物をする俺の背に、駒形さんの残念そうな声が届く。食器の返却コーナーにグラスを持ってきた鷹塔の手が、俺の視界の隅に一瞬だけ映って消えていった。
ありがとうございましたー、と名残惜しそうに駒形さんが言うのと同時に、テラス席へとパスタを運んでいった上倉店長が屋内席を一周して帰ってきた。
「都波」
俺を呼ぶ上倉さんの手には、なぜか一冊の本がある。見慣れたベージュ色の紙カバーが掛かった、ハードカバーの……。
「読書家さんの忘れ物。まだ間に合うかも。都波、追いかけて」
「承知しました」
本を受け取り、俺は店を出て左右を見回した。駅へと続く出入口には誰の姿もない。まだ建物から出ていないのならば、エレベーターかエスカレーターか。ひとつ上のフロアには書店がある。カフェから最も近いエスカレーターを選び、走った。閉店間際の施設内に人は疎らだ。求める長身の背は、すぐに見つかった。
「鷹塔さん!」
刹那、エスカレーターの前で悠然と振り返る鷹塔の口元に俺は微かな笑みを見つけ、やはり、と思った。
これは忘れ物ではない。わざとだ。
店長はカフェを離れることができず、女の子である駒形さんに男性客の忘れ物を届けさせはしないだろうとの推測に基づき鷹塔が企てた、俺を店外へおびき出す作戦だ。
「ありがとうございます、都波さん」
無感情な声が、義務的に礼を言った。こんなに無愛想な小児科医、子どもに怖がられはしないのだろうか。鷹塔自身も子どもが好きそうには見えないのに、なぜ小児科医なのかが不思議だ。
ゆっくりと俺の視野の中央で鷹塔の右手が上がる。長い指と大きな掌をしている。この手が子どもの頭を撫でたり、身体に触れたりするのか。
「……っ」
ざわ、と体内の水分が揺らめいたような気がして、目を瞠った。鷹塔の指先が、俺の前髪に触れそうな程、近くに来ている。
「あ、の」
それ以上、どんな言葉も発せないまま俺の声は凍りつく。鷹塔の行動の意味は何だろう。動揺に高鳴る鼓動が耳の奥でうるさい。
冷静な彼の黒い瞳が睨むように俺を見据え、身じろぎひとつさえ許さない。鷹塔の目の中に映る俺は、医院に来た幼い患者みたいに心細げな顔をしている。冷たい表情をした医師を前に、泣いてしまいたいなんて馬鹿な考えだろうか。
「……あぁ」
ふと我に返ったように鷹塔が息を落とし、静かに右手を下ろした。そのまま鞄へと差し込まれた指は、再び俺の前へ現れたときには何かを握っていた。
「お礼にこれ、あげますよ。都波さん」
「え」
本と引き換えに俺の手の中に置かれたのは、小さく軽い紙箱だ。鷹塔は用事が済んだとばかりに、俺の返事も待たないでエスカレーターへと足を踏み出している。見上げる俺を置き去りにして、もう振り返らない。
ゆっくりと上昇するエスカレーターが上階へと彼を導き、リノリウムの床に降り立った黒い革靴は真っ直ぐに書店方向へと進んで、やがて俺の視野から姿を消した。
「どうして」
右手に残された小箱の存在を、俺は不意に思い出す。
それは、未開封の頭痛薬だった。
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