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1 邂逅
「……はぁ」
第一ボタンを外し、ネクタイを緩めて溜息を吐くと、ようやく呼吸が楽になったような気がした。
きらびやかな披露宴会場は新郎新婦の生い立ちを辿るスライド上映の真っ最中だ。誰の目もスクリーンに集中し、闇に隠れて抜け出すには絶好の機会だった。
安堵に弛緩する身体をソファに沈め、俺はもう一度大きく息を吐いた。
幼馴染みの結婚はめでたい。
タキシードに身を包んだ啓がノンケな事なんか、勿論知っている。俺は幼稚園から一緒の啓に恋をしていたけれど、好きになってもらえない事など最初から承知の上だったから親友という関係を築き、今日まで維持してきた。
啓が幸せでいてくれればそれで良い、と頭の中に一文を書き付ける。
ずっと思い描いてきた啓の結婚の日。
それは俺の失恋が確定する日でもあるが、啓が幸福な人生を歩み続けていけるのならば、それがいちばんなのだと俺は心の底から信じている。
「具合、悪いですか」
「え?」
突然かけられた言葉の意味が一瞬判らなかった。頭上から降ってきた声はとても落ち着いていたから式場の従業員だろうと思ったけれど、目前に立つ人物は俺と同様に黒い礼服に白いネクタイを締めていて、披露宴の招待客以外の何者でもなさそうだ。
「あ、いえ。少々飲み過ぎてしまいまして」
苦笑交じりの返事は嘘ではない。
幼少期からの淡い恋の終わりを見届けられて寂しい反面一安心だとか、初々しい新妻がどうか啓を裏切らないでいてくれるようにだとか、この人には無関係な事を言わなかっただけだ。
「そうですか。足取りが不安定だったので一応気にしてみました」
「って、どこから見ていたんですか、もしかして同じ会場ですか」
「えぇ。俺は原田 啓君の勤務先の同僚で鷹塔 戒といいます」
あぁ、そうか。俺は友人だから職場関係のこの人とは別のテーブルだったのだ。全く気づかなかった。
「都波 真悠です。お気遣いありがとうございます」
俺は人見知りで初対面の人間と話すのは苦手だが、先に名乗られてしまっては仕方がない。
『まゆ』という少女趣味な名を無駄に他人に知られたくはないが、それに関する相手からの反応は特になかった。形式的に名乗りあっただけでどうでも良い事なのかもしれない。
「向かい、いいですか」
鷹塔の目がソファに落ちた。隣ならともかく向かいに座っても良いかと聞く人を初めて見た。律儀な性格なのだろうか。はい、と答えた俺に会釈をして彼はゆっくりと腰を下ろした。
軽く目を伏せてネクタイを緩める鷹塔はよく見ると整った顔立ちをしているが、表情が乏しいせいか少し冷たい印象を受ける。それでも見ず知らずの俺の様子を気にかけてくれたのだから、それなりに周囲へ目を配る事の出来る人物なのだろう。
「都波さんは、原田とは」
「幼馴染みです」
「スライドは見なくていいんですか。懐かしい写真が沢山あるでしょう?」
「……いえ」
だからこそ、見たくないという事だってある。俺の恋は今日が最終日だ。思い出を振り返るよりも花婿姿の啓を目に焼き付け、現実を思い知らされて終わった方が良い。
「具合、本当に大丈夫ですか」
「えぇ。話していたら気が紛れて落ち着きました」
無難な話題を見つけられずに口を閉じた俺に、啓の同僚はそれ以上余計な詮索をせずにいてくれる。良い人と仕事をしているんだな、啓。良かった──と、安堵したのも束の間。
「このまま抜けませんか」
突然、鷹塔の低い声が場に相応しくない言葉を発した。
「はっ? 合コンじゃないんですから流石にマズいでしょう」
何を言っているのだろう。
俺にとっては大切な友人の披露宴だ。鷹塔だって今後も啓と職場で顔を合わせるのだから、人間関係にヒビが入るような事をするのは良くない。非常識にも程がある。
そもそも俺とこの人が一緒にここを出て、その後はどうするというのだろうか。
「都波さん、あなた」
黒い瞳に見詰められた瞬間、俺の呼吸はビクリと止まった。理由は分からない。ちょっとした威圧感に似た空気が、鷹塔から発されているように感じたせいかもしれない。
「『何とかしてあげたいオーラ』が出ていますよ。無自覚でしょうけれど」
「はぁっ?」
更に輪をかけて非常識なその発言に俺は頓狂な声を上げてしまった。
ロビーが無人だった事だけが幸いだ。
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