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最後のひと時
いち はじめ
私はもう、長くはないかもしれません。
体が重く、もう自分では思うように動かすことができません。重い鎖を体に巻き付けられているようで、もはや自分の体ではないようです。自分の寝床で、横になったまま過ごす日が、もう半月ほど続いています。
午前中に、往診の医者が来て、私を診察していきました。帰り際に、お母さんと何やら話していましたが、何を話していたのか分かりません。ただお母さんは、帰っていく医者にしきりと頭を下げていました。
そういうことなのでしょう。
おや、誰か帰ってきたようです。この気配はお父さんだ。まだお日様は天空にある。こんな時間に帰ってくるなんて珍しいな。ちゃんと出迎えてあげたいけど、頭を上げるのが精いっぱいだ。我ながら情けない。
お父さんは着替えもせずに、私の頭やら背中やらを優しくなでてくれる。その優しさから感謝の気持ちが伝わってきた。お父さん、感謝するのは私の方です。お父さんの傍にいられて私は幸せでした。私は何かお役に立ちましたでしょうか。近年は、病気がちな私のせいで、ご迷惑をかけたのではありませんか?
ああ、そんなに優しくして頂いて嬉しいです。お父さんの目からあふれているのは、涙ですか? お父さんの涙、初めて見ました。
あれ、また誰かきたようですね。この匂いはもしかして……。あっ、やっぱり坊ちゃんだ。もう目も耳もダメになっていますが、においで分かります。ずいぶん大人の匂いに変わってますが、紛れもなく坊っちゃんの匂いです。私の大好きな坊っちゃん。
思い出します。私がこの家に来たのは生後4か月の時でした。その時坊っちゃんは、ちょうど6歳。やんちゃないたずらっ子でした。もう兄弟のように、二人でよく遊びましたね。とても楽しかったですよ。
で、よく叱られました。いつぞやは、庭に干してある洗濯物を泥だらけにしたことで、坊っちゃんがお母さんにこっぴどく叱られて……。坊っちゃんが大泣きして泣き止まないので困りました。何しろ洗濯物を引き落としたのは、この私だったのですから。あの時は本当に申し訳ありませんでした。でも、坊っちゃんが庭に掘りまくった穴で、私がお父さんに叱られたこともありましたから、おあいこですよね。
ああ、小さいときの思い出が、鮮明によみがえってきて、私の心を温かく満たしていきます。
でもそうこうしているうちに、私の方が先に大人になって、坊っちゃんの成長を見守っていくことが、私の楽しみになっていきました。
中学生になった坊っちゃんは、外の世界に興味を持ち始めて、私と遊ぶことが少なくなりました。これは坊っちゃんが成長した証なのですが、私はちょっと寂しかったんですよ。
でもそんな坊ちゃんが、ある時期盛んに、私の散歩役を買って出たことがありましたね。とても不思議に思ったんですけど、その理由が分かった時はニヤリとしました。私のニヤリ顔、気付いてましたか。
散歩で行く公園に、お目当てのお姐さんがいたんですよね。ポメラニアンを連れた綺麗なお姐さんでした。気付かなかったでしょうけど、実は会話のきっかけになるようにと、私がポメラニアンにちょっかいを出したんですよ。
彼女と会話する坊っちゃんはとても嬉しそうで、そんな坊ちゃんの横で私も嬉しかったです。私はポメラニアンの彼女に袖にされましたけど……。
でも彼女は結婚してこの街を去りました。彼女から、結婚することを告げられた坊っちゃんが、公園のベンチで号泣したことは、私の一番のつらい思い出です。
そうして成長していった坊っちゃんは、大学生になってこの家を出て行きました。一人前になるためには必要なことですが、寂しいものでした。
私はもう二度と会えないのかと諦めてました。でも今日、家に戻ってきてくれてありがとうと言いたいです。もうしっぽしか振れませんけど……。
この家に来た時からの友達である坊っちゃんに、こうしてまた会えて嬉しいです。
坊っちゃんが、私の首に抱き着いて号泣している。今でも私のことを友達と思ってくれているんですか? とてもうれしいです。
坊っちゃん、辛くなりますから泣かないでください。私は坊っちゃんの泣き顔が苦手なんですよ。
犬の一生は、人間に比べてずいぶん短いのです。幼い時の友達も、今やよぼよぼのおじいちゃんですから。でも友達として見送ってくださいね。
あれ、体の重たさを感じなくなりました。体がとても軽いです。私が坊っちゃんの腕をすり抜けて、上っていきます。
さようなら、坊っちゃん。
私の幼い時からの友達、さようなら。
(了)
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