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傘下から夫が顔を覗かせた頃を見計らい、私は両手を控えめに振る。
合図を確認した彼は、息を弾ませて屋根下へ滑り込んだ。
「あ、紗弥! 間に合ったよ……」
一旦傘を窄めると、夫は両膝に手を置いた状態でしばし休息を取った。
彼の額には、雨とも汗とも分からない水滴が止め処なく伝う。
「いつも悪いわね。適当に雨宿りするか、濡れて帰るかでいいのに」
「本心では早く家に帰って休みたいでしょ?
俺も息抜きになるし、これが一番いいんだって」
微笑して体勢を整えた夫の背中は、私より一回りも大きい。
出会って間もなく惹かれた寛大さが、未だにそこへよく表れている気がした。
突然の雨の夜に限り、フリーランスの漫画家である夫は
都心のオフィスで働く私を、その脚で駅まで迎えに来てくれるのだ。
私は会社を出た時点で、決まって帰宅の連絡をする。
そこから時間を予測して彼は家を出発するのだが、
何度促しても『迎えに行くよ』と返すのを忘れるようで、
常に余計な不安を抱えさせられていた。
夫と籍を入れてから現在に至るまで、8年の月日が流れた。
交際当初と比べて、見た目も関係性も多少変わったが、
この習慣だけは昔のままに続いている。
とっくに見慣れた夜道でも二人で歩けば、
雨のもたらす漠然とした心細さに、不思議とめげずにいられた。
車を使う方が楽なのだろうけど、
幸か不幸か私たちは二人とも自動車免許を持っていない。
以前から彼には取得を勧めているものの、
折あるごとに忙しい理由をつけて後回しにし、結局行動に移すことはなかった。
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