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「はい。今、宮さんは奥殿のうもじ(乳母)の手にあらしゃって、うちは母でありながら、おめもじすらも満足に叶いません。
側に置いてくれと申すのはおこがましい事にございますけれど、せめて…、せめて月に何度か御顔を拝するだけでも、お許しいただければと」
伊勢はすがるような目で、染の井を見つめた。
ずっと誰かに頼みたかった事であったが、なかなか機会がなく、ずっと独りで悶々としていたのだ。
頼むならば今しかないと判断し、伊勢は思い切って言上したのである。
「──さよにあらしゃいましたか」
染の井は得心したように頷くと、カンッと音を立てて、煙管の灰を、煙草盆の灰皿に落とした。
「まぁ…うちも上臈に上がったばかりの身ぃ故、仙洞さんに何かお頼み出来るような立場ではないのやけれど、
一先ず、そもじの願いは分かりました。折を見て、仙洞さんのお耳に入れるように致しまひょう」
「まことにござりますか !?」
「せやけど、あまり期待はし過ぎんように。宮さんのお輿入れが、正式に決まった訳ではないのやからな」
染の井は釘を挿したが、伊勢は初めて自分の意が伝わった事の方が嬉しく
「はい──有り難う、忝のう存じます」
と、それは晴れやか面持ちで頭を下げるのであった。
──後日、中臈に格上げされた伊勢改め『 右衛門佐局 』が、腰に緋袴を着け、
甲花菱文様の小袿を纏った艶やかな装いで、局部屋の出仕廊下を悠然と歩いて行く姿があった。
御所に仕える女中たち、女房でも下臈以下の者たちは、右衛門佐局(伊勢)が側を通り過ぎる度に、皆サッと脇に退いて、頭を垂れてゆく。
この恭しさに、右衛門佐局の背後に続くいおは、何とも言えない優越感を味わっていた。
「──旦那さん、あれを…」
するといおは、居室から出て来る大江と丹波に気付き、後ろから右衛門佐局に囁きかけた。
右衛門佐局は、もはや臆する事もなく、真っ直ぐに廊下を進み続けると、大江と丹波も彼女の存在に気付き、はっと表情を固くした。
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