352人が本棚に入れています
本棚に追加
思いがけぬ出世によって、右衛門佐局の心にようやくゆとりが出来始めていた頃、大奥の月光院の心は荒んでいた。
相も変わらず間部詮房との醜聞によって、常に好奇と非難の目に晒され、気の休まる暇がなかった。
しかし、それはまだ良い。少なくとも事実ではないのだから。
それよりも、我が子である家継からの信頼を失ったのは、大きな痛手であった。
家継はあれから月光院を避け、毎朝の総触れの時も、御仏間での拝礼の時も、少しも目を合わせてくれない。
御新座敷を訪れることもなく、最近では中奥の居室で過ごすことが多くなっていた。
そして追い打ちをかけるように
「──上様、ご覧じませ。三の丸の畔に咲いておりました杜若にござます。美しゅうございましょう?」
瑞春院がこれまで以上に大奥に参上して、家継を構うようになっていた。
遊びの時、勉学の時、夕餉の時にまで、大奥の将軍御座所を訪れては、家継の側にそれこそ影のように侍っているのだ。
この事態に大奥の女たちは
「三の丸様は常に上様のお側にあられて、まるで将軍ご生母のよう」
「ご生母と申すにはお歳が離れ過ぎておりましょう。どちらかと申せば、お祖母様と孫」
「いずれにしても、越前守様と不貞を働いておられる実の母君よりは、心安いのやも知れませぬなぁ」
と言って、陰で冷笑を漏らしていた。
しかし、悪いことばかりではなかった。
時が経つにつれて、月光院にとって嬉しい変化が起き始めたのだ。
例えば、今までは目も合わせようとしなかった家継が、ちらちらと月光院の方を気するようになり、
ふと誰かの視線を感じると、遠くから家継がこちらの様子を眺めているという事もあった。
将軍とはいえ、やはり幼子。
真偽の分からない疑惑よりも、実の母への愛情、母に甘えたい心の方が強くなっていたのかも知れない。
事実、三日前などには
「──月光院様。あれを…、上様が御入口に」
六條に言われて御新座敷の入口に目をやると、そこに家継が立っていた。
「家継様…!」
最初のコメントを投稿しよう!