河崎

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そして後日、皇女・八十宮のご降嫁を()い願う書状が、改めて幕府から霊元法皇の元へと届けられた。 そこには、八十宮の輿入れは「一位御方・月光院殿御願之趣、老中一同之通」と記されていた。 つまり『 老中一同 』及び、家継の二人の母である『 天英院、月光院の願い 』であるという意味である。 詳細は不明であるものの、法皇が「尚、考えてみる」と返答して以後、幕府はこうした請願書を度々送っていたと考えられ、 発意者ではなかった天英院も、江戸幕府初の皇女降嫁に向けて、朝廷に何らかの働きかけをしていたものと思われる。 初めの返答以降、霊元法皇からははっきりとした返事は届いていなかったが、僅かな可能性にすがるように、幕府は(あきら)めることなく、法皇の説得に尽力し続けた。 ──そして、同年の七月。 再三の要請と説得の末、霊元法皇から以下のような返答が幕府に届いたのである。 《 公武合体の為、珍重に思し召すの条、二才姫宮御領あるべし 》 つまりは “ 将軍家との縁組は公武合体(こうぶがったい)のために珍重に思うので、数え二才の姫宮(八十宮)を江戸に遣わそう ” という意味である。 この二行にも満たない法皇の返答によって、初めて公武合体が実現したのである。 この時は霊元法皇の意向が伝えられただけであったが、同年九月二十三日。 朝廷は、八十宮の関東輿入れに正式決定を下した。 権大納言・東園基長の日記である「基長卿記」には、以下のように記されている。 《 法皇御所姫宮八十宮御方、関東江御入輿之儀、一位御方・月光院殿御願之趣、老中一同之願之通、聞し召され候。即ち禁裏江御相談、 摂家中江も仰せ聞けられ候。弥公武合体之儀御機嫌に思し召され候間、御契約有らせられるべく候。目出度く御満足思し召され候御通、申し達さるべきの旨、仰せ出され候 》 法皇の姫宮である八十宮様が関東へお輿入れなさることは、一位様(天英院)と月光院殿、また老中一同の願いにより聞き届けられた。そこで禁裏に相談し、 摂家へもお伝えになった。いよいよ公武合体のことを御機嫌に(おぼ)し召されるので、縁組を成就させた。めでたく満足に思われている──という事である。 同様に「院中御番衆所日記」にも 《 正徳五年九月廿三日、天晴、八十宮御方、関東御入輿之事、内々一位御方、月光院殿御願により、今日御治定 》 (正徳5年9月23日、天晴、八十宮様が関東に輿入れされる事が、一位様と月光院殿の内々の願いにより、今日決定した) と記されており、この同日に八十宮の輿入れが正式決定に至ったことは間違いなかった。 この九月二十三日の朝廷の決定は、即座に江戸幕府へも伝えられた。
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