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「ずっと考えていた事だったのです。我が夫・家宣公の遺言に従い、家継様と月光院殿を補佐する為に本丸に留まっていたが、
家継様は利発に育たれ、無事に八十宮様との縁組も整のうた今、もはや後顧の憂いはありませぬ」
天英院は沁々として言うと、一度大きく息を吐いてから
「近々、私は本丸大奥から退き、城の西の丸へ移ろうと考えておりまする。隠棲の身となり、静かに己の余生を過ごしたいのじゃ」
真摯な眼差しで、秀小路たちに自分の思いを告げた。
天英院が、西の丸御殿での隠居を考えていた旨は、京都府の陽明文庫に保管されている天英院の書状にも綴られており
『 早く西の丸に移って、心穏やかに暮らしたいのです 』
と、父・基熙に知らせている。
「…されど、天英院様はこの大奥の首座にございます。女たちを束ねる御方がいなければ、大奥は成り立ちませぬ」
秀小路は引き止めるように言ったが、天英院の考えは変わらなかった。
「私の代わりならば月光院殿が務めて下さる。それに、奥女中の取り締まりは豊原殿が為してくれておる故、心配は無用であろう」
天英院は穏やかに微笑んだ。
「確かに、幕府の中枢であるこの本丸にいれば、私の立場や権勢は安泰なのやも知れぬ。されどその分、責務と重圧がのしかかる、
気苦労が絶えぬ場所でもある。…御簾中時代を過ごした西の丸へ移り、安穏とした日々に身を投じたいのです」
「…天英院様」
「この御台所御殿には、いずれ八十宮様にお入りいただく事になるであろうし、今が良い機会じゃと思うてな。
西の丸への移動ともなると、色々と支度も多い故、そなたたちに迷惑をかける事になると思うが、許してたもれ」
岩倉は思わず首を左右に振って
「私たちの事はよいのです。──それよりも、西の丸へはいつお移りに?」
と、先々の事を考えて訊ねた。
「無論、今すぐにではない。家継様と八十宮様の “ 納采の儀が ” 滞りなく終えたのを見届けてからと、そう考えておりまする」
「左様にございましたか──。それを伺い、安堵致しました」
「急にかような事を申して、まことに相済まぬ。なれど西の丸転居の旨、よくよく心に留め置いていて下され」
宜しゅう頼みますと天英院が告げると、秀小路たちは「はは──」と畳の上に三つ指を揃えて、静かに低頭した。
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