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右衛門佐は八十宮の頭を優しく撫でながら
「少し前までは、宮さんとおめもじする事も叶わず、せめて御顔を拝する機会が持てればと思うて、染の井さんに懇願していたのやけれど、
まさか、こうして宮さんと触れ合う時を持てるようになるとは──夢にも思うておりませなんだ。ほんまに幸甚至極。有り難き事にござります」
感慨無量とばかりに、右衛門佐は胸をいっぱいにして述べた。
「それもこれも、染の井さんが仙洞さんに、旦那さんのことを言上してくれはったおかげ。…いいえ、関東の代官さんとご縁組を結びはったおかげですなぁ」
「いお、関東の代官とは失礼でっしゃろ。仮にも宮さんのご夫君にならしゃるお方に」
「お許しやす…。その、関東の、い、い、家継さんに」
慌てて言い直すいおを見て、右衛門佐局はふふっと笑った。
「されど確かに、そもじの申す通りや。仙洞さんは、幕府に宛てたご縁組の返答に “ 珍重に思う ” と書いていたそうやが、まことにそないに思うているらしい。
そのお証に、京の公達さんの元へ片づくのと違うて、お日取り決めも、幕府への対応も、何事にも丁重にお運びにならしゃっているご様子や」
「それだけ此度のご縁組を、お大事さんに思われているという事どすな」
「ええ。…仙洞さんがうちに “ ひと月のうち三度に限り、八十宮と過ごす旨を許す ” と言うてくれはったのも、仙洞さんのそないな思いが表れての事ですやろ」
「ほんに、これに限っては、関東さまさまにござります。──なぁ宮さん」
いおは冗談っぽく告げながら、八十宮に微笑みかけていると
「御免つかまつります」
女房姿をした、三十半ばと思わしき背の高い女が、座敷の中に入って来て、右衛門佐局の前に控えた。
「申し上げます。佐さん、程なく半刻(一時間)にござります」
「萩の江さん…」
「名残惜しさんであらしゃいましょうが、宮さんをこちへお預け下さりませ」
萩の江は、そっと右衛門佐局の方へ両腕を伸ばした。
五条家庶流・桒原家の出である萩の江は、初め霊元法皇の第十五皇子・峯宮に仕えていたが、
峯宮が齢三つで早世した為、その翌年に産まれた八十宮へお付き替えとなり、今では八十宮の教育役の乳母を任されていた。
生家が紀伝道を家業としているだけあり、歴史と漢文に優れ、先に八十宮の世話をしていた御差(授乳役の乳母)の須埜ですら、頭が上がらぬ程であった。
「──ささ、宮さんをこちへ」
八十宮を預かろうとする萩の江を前に、寂しさからか、右衛門佐局が渋っていると
「お、お待ちを…萩の江さん、お待ちを!」
いおが慌てて進み出た。
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