千 代

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「お津重殿は口では反省を述べておりまするが、裏では、上様のご寵愛を取り戻さんと躍起になっているご様子。──月光院様も、ご油断召されませぬよう」 六條が忠告すると、月光院は深く首肯した。 「分かっております。あの者は以前も庭にて、家継様をたぶらかすような振る舞いを致しておった故、常に危惧しておったのじゃ。 あのお津重が上様のお手付き中臈でなかったら、とっくの昔にお役御免に致していたところを…。何とも口惜しい」 月光院は思わず(ほぞ)を噛んだ。 将軍のお手が一度でも付いた女中は、大奥から出ることが固く禁じられているのである。 「──ひとまずお志保の方様には、五ヶ月を迎えるまでは蟄居の名目でお部屋に引きこもっていただき、 その後、御産所である “ 北の部屋 ” へとお移りいただきまする。その折に、正式にお方様のご懐妊を(おおやけ)にする運びと致したく」 三室が頭を垂れつつ告げると、月光院も「それが良かろう」と賛同した。 「ひとまず長局から、北の部屋のある御殿向きへ移っていただくまでは、三室殿、決して事実を周囲に悟られぬよう、しっかりとお志保殿をお守り下され」 「承知つかまつりました──」 三室は畳に三つ指をつかえ、今一度 低く頭を下げるのだった。 そして一夜明けた、翌日の()の刻(午前10時頃)。 御鈴廊下(おすずろうか)の鈴が厳かに鳴り響く中、朝の「総触れ」の為、中奥(なかおく)から家継が奥入りした。 家継は、出迎えに出たお付きの御年寄、御中臈たちを引き連れて御小座敷(おこざしき)に出向くと、 御台所である八十宮の挨拶を受けた後、宮と共に御仏間で拝礼し、その後 御新座敷の月光院の元へ朝の挨拶に向かった。 何の変わりもない、将軍と御台所の朝のルーティンであったが、この朝はいつもと違うことが起きた。 上段に座す月光院に 「──母上様には、本日もご機嫌麗しう」 と、家継が述べた後 「──ご機嫌よぅ。本日も義母(はは)上さんの麗しきご尊顔を拝することが叶い、有り難う、(かたじけ)のう存じ参らせます」 八十宮もいつも通りの丁寧な口調で、月光院に挨拶を述べた。 すると月光院は、まず家継を見据えて 「有り難う。家継様もご健勝そうで何よりです」 と言葉を返すと、続いて八十宮に視線を向けた。 宮を見つめる月光院の瞳に暖かな光が帯び、その形の良い口元に柔和な笑みが広がった。 「御台様も御気色(おみけしき)麗しうてよろしゅうございました。昨夜は蒸し暑うございましたが、よくお眠りになられましたか?」 月光院の優しい問いかけに、八十宮は勿論、控える大納言典侍、督典侍(こうすけ)中将(ちゅうじょう)内侍(のないし)らお付き女房たちも、思わず目を(しばたた)いた。 それは八十宮がこちらの世界で目覚めてから、初めてかけられた月光院からの優しい言葉であった。
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