352人が本棚に入れています
本棚に追加
──正徳四年(1714年) 九月晦の朝。
先々帝・霊元法皇に仕える下臈の伊勢は、篠を突つくような激しい雨音で目を覚ました。
ぽってりとした目を薄く見開くと、何の飾り気もない竿縁天井が眼前に広がり、動物にも人の顔のようにも見える天井の木目が、
朝とは思えぬような暗澹さで、臥床に横たわる伊勢をじっと見下ろしていた。
朝晩必ず目にする見慣れた光景であったが、雨のせいであろうか、今朝はとかく陰が籠っているように見える。
白い寝衣姿の伊勢は、細身の身体には不似合いな、大きく出っ張った腹部を庇うようにしながら、そっと上半身を臥床から起こした。
正面に見える入口の障子戸から、鈍色がかった淡い光が射し込み、伊勢の褥の足元をうっすらと照らしている。
「──きあい(気分)の悪いこと…。かような日に、天がおむつかり(お泣き)あそばされるとは」
伊勢は口元を真横に結びながら、ゆっくりと立ち上がると、入口の障子戸を静かに横に開いて、御入側へ出た。
湿気を含んだ冷え冷えとした空気が、縁を挟んだ前庭から緩く流れて、伊勢の寝惚け眼をはきと開かせた。
そっと縁に近付き、そこから空を見上げてみると、鉛色の雲が立ち込めた空から、大粒の雨が矢のような速さで落ちている。
晴れた日には植え込みの常磐木や白い庭石がよく映える典麗な庭であったが、この日は何もかもが雨水の衣の内に隠されて、陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
降りしきる雨を眺める内、ふいに湿りを含んだ冷たい風が、御入側に立つ伊勢の身に直に吹きかかった。
伊勢は咄嗟に両腕を前に回し、腹を冷やさまいとして、腕でしっかりと包んだ。
伊勢は身重であった。
それも臨月──重ねて言うならば、奇しくもこの日が、御典医が診立てた兆候が見られる日であった。
無論この時代の診立ては現代以上に曖昧なものであるが、既に臨月である伊勢には、
腹の子が今日、明日にも産まれるやもという確信と、それを静かに待てる程の冷静さがあった。
初産ならばそうはいかなかったかも知れないが、伊勢はそうではなかった。
最初のコメントを投稿しよう!