【第1章】 伊 勢

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──正徳(しょうとく)四年(1714年) 九月(みそか)の朝。 先々帝・霊元法皇(れいげんほうおう)に仕える下臈(げろう)伊勢(いせ)は、(しの)を突つくような激しい雨音で目を覚ました。 ぽってりとした目を薄く見開くと、何の飾り気もない竿縁天井が眼前に広がり、動物にも人の顔のようにも見える天井の木目が、 朝とは思えぬような暗澹(あんたん)さで、臥床(ふしど)に横たわる伊勢をじっと見下ろしていた。 朝晩必ず目にする見慣れた光景であったが、雨のせいであろうか、今朝はとかく陰が籠っているように見える。 白い寝衣(しんい)姿の伊勢は、細身の身体(からだ)には不似合いな、大きく出っ張った腹部を(かば)うようにしながら、そっと上半身を臥床から起こした。 正面に見える入口の障子戸から、鈍色(にびいろ)がかった淡い光が射し込み、伊勢の(しとね)の足元をうっすらと照らしている。 「──きあい(気分)の悪いこと…。かような日に、天がおむつかり(お泣き)あそばされるとは」 伊勢は口元を真横に結びながら、ゆっくりと立ち上がると、入口の障子戸を静かに横に開いて、御入側(おいりがわ)へ出た。 湿気を含んだ冷え冷えとした空気が、(えん)を挟んだ前庭から(ゆる)く流れて、伊勢の寝惚け(まなこ)をはきと開かせた。 そっと縁に近付き、そこから空を見上げてみると、鉛色の雲が立ち込めた空から、大粒の雨が矢のような速さで落ちている。 晴れた日には植え込みの常磐木(ときわぎ)や白い庭石がよく映える典麗な庭であったが、この日は何もかもが雨水の衣の内に隠されて、陰鬱な雰囲気を(かも)し出していた。 降りしきる雨を眺める内、ふいに湿りを含んだ冷たい風が、御入側に立つ伊勢の身に直に吹きかかった。 伊勢は咄嗟に両腕を前に回し、腹を冷やさまいとして、腕でしっかりと包んだ。 伊勢は身重であった。 それも臨月──重ねて言うならば、奇しくもこの日が、御典医(ごてんい)が診立てた兆候が見られる日であった。 無論この時代の診立ては現代以上に曖昧なものであるが、既に臨月である伊勢には、 腹の子が今日、明日にも産まれるやもという確信と、それを静かに待てる程の冷静さがあった。 初産ならばそうはいかなかったかも知れないが、伊勢はそうではなかった。
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