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「ええ。今しがた」
足早に寄って来る相手に、聞こえるか聞こえないか程度の声量で応えると
「そもじ(貴女)も今朝は随分とお早々なこと」
今度はしっかりと身体を向け直してから、軽く笑みを作った。
「言うほどに早ようもござりませぬ。もう六つ半にあらしゃります故」
「さよ(左様)であったか…。今朝はおさがり(雨降り)やよって、こうお暗さんでは何刻やらも分かりませぬ」
「ささ、お部屋の中へお入りあそばされませ。かようなお寒々な所にごあしゃって(お出になって)は、お腹の吾子さんに毒でございます」
「いおはほんに心配性やな」
いおを見つめる伊勢の切れ長な一重瞼が、すっと線を引いたように細まった。
いおは御年十六になる、小作りな身体付きの、幼顔の少女である。
法皇の子を懐妊した後宮とはいえ、他の御所院付きの女房たちがその世話を焼いてくれる訳ではない為、
身の回りの御用を任せる侍女衆は、生家から雇い入れなければならなかった。
とはいえ地下家である松室(秦)家に侍女を雇う余裕などあろうはずもなく、猶子先である岩倉家の手配によって女たちが集められた。
京の御公家衆は服装、化粧に至るまで華美に淫し、華道、連歌、聞香、管弦などの雅な芸事を嗜んで箔を付けていた一方、
政権を握る江戸幕府から与えられた石高が、僅か二十、三十石ほどの貧乏公家が多く、生活面はかなり困窮していた。
朝廷なども禁裏料は三万石、仙洞御所に至っては一万石に過ぎず、武家で言えば何とか大名を名乗れるほどの石高しかなかった。
そのような状況下であるから、岩倉家が伊勢の為に手配した女たちも、医師、社家、儒者の娘たちの三名。
松室家と同じ地下家・梶江某氏の娘一名の計四名であり、その梶江某氏の娘というのが、いおであった。
元々この四名は伊勢が職仁親王を身籠った折に雇い入れられた女たちであり、伊勢が親王を分娩後、
僅か三ヶ月足らずで懐妊に至った為、そのまま伊勢の元に居残った訳である。
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