Ⅰ. 桜子

10/32
前へ
/145ページ
次へ
 わたしたちが住んでいるこの街は、海に近いというだけが取り柄の、こじんまりとして眠たげな街だ。夏になると海岸には海の家が立ち並んで、サーファーや水着姿の若者たちで賑わう。けれど、海から少し離れてしまえば、マンションや戸建ての立ち並ぶごく普通の住宅地が広がっている。大きなスーパーなどはないけれど、駅前には昔ながらの商店街があって、日常に必要なものなら大体そこで揃えることができる。海岸沿いには大きな国道が走っていて、夏の夜には暴走族たちの立てるバイクの騒音が、海からの風に乗って聞こえてくる。洗濯物は、日によって取り込むときに潮の香りがすることがある。  普段の生活で意識することは余りないけれど、ふとした瞬間、例えば空気の湿り気とか、鼻先を掠める海風を感じる時、なんだか「ああ、遠くにきたな」と感じることがある。そう言ったら、美月はピンと来ないようだったけれど、伊織は「なんか分かる気がする」と薄く笑った。無関心と寂しさがブレンドされたような、わたしの好きなふんわりとした笑顔で。  わたしたちの住んでいるマンションは、海から歩いてちょっといったところにある。灰色のタイル張りの二階建てで、築36年と古いけれどもリノベーションなるものを施してすっかり近代風に造り替えられている。
/145ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加