Ⅰ. 桜子

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 シモーヌというのは正式にはパティスリーシモーヌと言って、スタジオから少し歩いたところにある洒落たケーキ屋さんだ。雑居ビルが立ち並ぶその界隈には不釣り合いな、シックで品のいい店。ショーケースには色とりどりのケーキが陳列されていて、その一つ一つには一見控え目ながらも実は手の込んだ装飾がされている。くるりとリボンの形に成形されたチョコレートがのったキャラメルムースとか、つやつやのジャムが塗られたベリーのケーキとか、一つ600円から700円もするそのケーキは口に入れると洋酒の香りが広がって、仕事終わりの疲れた体に染み渡る。店のドアを開けた時に、ドアベルがカランコロンと涼やかな音をたてるのも、わたしは好きだった。今日、久しぶりに帰りに買って行こうかな、と考えながらロッカーの鍵を外していたら、鹿野さんが言った。 「いいなあ。仕事終わりにケーキを買って帰って、彼氏と食べる。そういうお洒落な青春を、私も送りたかったなぁ」  あはは、とわたしは笑って流す。彼氏と食べるケーキとは特別においしいものなのだろうか、と考えながら。とりあえず、わたしがシモーヌのケーキを一緒に食べる相手は、鹿野さんの想像している彼氏ではない。でも勿論、それを鹿野さんにいう必要もなければ、そんなつもりもない。  伊織には洋梨のムースを。美月にはいつものショートケーキを買って帰ろう。「っしゃー!高級ケーキ!」と小学生男子のようにはしゃぐ二人の顔を思い浮かべて、つい口元が綻ぶ。コタツにも、何かおやつを買って帰らなくては。わたしは急いで身支度を整えて、足早に職場を後にした。
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