Ⅰ. 桜子

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☞  いわゆる世間でいうところの彼氏という意味では、わたしには田村さんがいる。わたしよりも5歳年上の、線の細い男の人だ。銀縁の眼鏡をかけていて、わたしのことを「桜子ちゃん」と呼ぶ。伊織がわたしを呼ぶ時の仄かに甘い「さくらこちゃん」という響きとも、美月のちょっとからかうような「さくらこ」という呼び方も違う、いかにも控え目な「桜子ちゃん」だ。  田村さんは大手の製薬会社で働いている。世間で言うところのいわゆるエリートサラリーマンである筈で、何故そんな人がわたしと付き合うことになったのか、わたし自身も良く分かっていない。  初めて田村さんに会ったのは、会社の同期が開催した合コンの場だった。ヨガスタジオのスタッフは女性限定なこともあって、そこで働いている女の子たちは常に躍起になって出会いの場を探している。ロッカールームでは常に、今度の合コンには何を着ていくだのどこのお店を予約しただのという話が飛び交っていて、鹿野さんが毎度「あーあ、若いっていいなあ」とため息をついている。そういう、星の数ほど開催されていた合コンで、たまたま人数あわせで呼ばれたわたしの目の前に座ったのが田村さんだったのだ。  いつでもぴしっとスーツを着こなしている田村さんは、紳士的でとても常識的な人だった。常識的であるということは、付き合っていく上でとても重要なことなのだと、わたしの母は常々言っていた。あんたは頭が良くないのだから、常識的な人と結婚して大事なことはその人に決めてもらいなさい、と。
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