Ⅰ. 桜子

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「こんなに自堕落な生活をしながら言う台詞かね」  伊織が呆れたように目をぐるりと回して見せた。全体的に色素が薄くて、顔立ちが整った伊織はともすればアメリカの映画に出てくるティーンエイジャーの様で、そういう大袈裟な仕草が良く似合った。 「自堕落な生活はこの家の中だけの話なの。この家を一歩出れば、私はちゃんとした社会人なんだから」 「でも結婚生活で大事なのは家の中じゃないの?勿論、ちゃんとした社会人であることも大事なんだろうけどさ。」 それとも、と伊織は面白そうに言葉を続けた。 「結婚したら、家の中でもちゃんとした大人みたいに振る舞うつもり?」  例えば、こんな夜中に急にお腹減ったとか言ってヨーグルト食べ始めたり、自分の部屋で寝るのが寂しいからリビングのソファーで朝まで同居人がゲームするの見てたり、しないわけ?  痛いところを突かれてわたしは顔をしかめる。そうなのだ。わたしがいつか築くことになるのは普通の結婚生活なんかじゃない。欺瞞と罪悪感の上に成り立つ、砂の城のような生活だ。でも、と心の中でわたしは反論する。完璧な結婚生活を送っている人など、いるだろうか。誰だって、期待はずれで落胆したり、隠し事をしたり、それでも許しあったりしてなんとかやっていくんじゃないのか。でも勿論、こうやって自分を正当化することの卑怯さだってわたしはちゃんと自覚している。 ほぅっと大きく一つため息をついた。結婚は、しなくてはいけないんだろう。生きていくために。どこかの、ちゃんとした誰かと。そうじゃないと生きていけないから。でもそれはまだ、今じゃない。そう思うことで、かろうじて心の平穏が保たれた。
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