Ⅰ. 桜子

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「それはない」  即答してから私はちょっと考えた。両親は姉の家族と同居しており、去年初孫が産まれたばかりだった。それでなくても東京で名も知られていない零細企業に就職して細々とその日暮しをしている不出来な娘に対する関心は年々薄れていっているようだった。このまま、うまい具合に縁が切れればいいのにな、という気持ちは確かにあった。そうすれば、わたしは母の呪縛から逃れられるのに。育ててくれた親に対してそんな風に思うことへの罪悪感と、もうどうとでもなれという投げやりな気持ちの狭間で揺れた。  テレビでは将棋対決がやっていて、伊織の目はそれに釘付けのように見えた。でも、その横顔はわたしの返事を待ち構えていた。そういえば、伊織が帰省しているのを見たことがない。こんなに一緒にいるのに、実家の話もあまり聞かない。本当は色々と訊きたいのだけれど、自分が話したくないことについては伊織は頑なに沈黙を守っていた。 「よく考えてみたら、今年はそんなに休み取れないんだよね。交通費ももったいないし、年末は実家に帰らないことにしようかな」 わたしがそういうと、伊織は意外そうにこちらに顔を向けた。 「いいの?」
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