Ⅰ. 桜子

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「仕事、行ってくるね」  言い置いて家を出ると、外はそれはもう絵に描いたような、夏だった。青い空から眩しい日差しが降り注ぎ、アスファルトからは陽炎のような熱気が立ち昇る。しゅわしゅわとはじけそうな空気の中を、日傘をさしたおばあさんが、ゆっくりとした歩調でマンションの前を通り過ぎた。  回れ右してあの快適な水槽の中に戻りたくなる気持ちをぐっと堪えて、わたしは駐輪場に停めておいたボニーのところに向かう。ボニーはわたしの自転車だ。鮮やかな水色の塗装が施されている。ボニーの隣りには、クライドがいる。クライドは美月の原付バイクである。  初めて美月がわたしの自転車を見た時、「いい色じゃん、なんて名前?」と聞いたのでわたしはびっくりした。自転車に限らず、モノに名前を付けるという習慣がわたしにはなかったからだ。隣で聞いていた伊織も同じように驚いていた。 「名前なんてないよ、ただの自転車だよ」 「バッカお前。モノには名前つけたほうが愛着沸くだろうが。特に乗り物とかは、そういうの大事だぜ」  じゃ、美月が名前付けてよ、と言うと美月は間髪入れずに「ボニーだな」と言った。 「なんでボニー?」 「俺の原チャリがクライドだから」
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