第一話 禁足地に咲く花

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第一話 禁足地に咲く花

   夕暮れ時 ― 古来より「逢魔が時」と呼ばれる時間帯。寺の鐘の音に取って代わったスピーカーが、妖しき時間の到来を告げる。  本来ならば、この知らせを聞きつつ、家路につく頃なのだが。少なくとも私の身体は速度というものを有していない。  原因は至極簡単なことだ。遭ってしまったからだ。 「憎いなぁ、、、恨めしいなぁ、、、、、、」  下草が生い茂ったその先に、着物姿の女が一人。こっちに背を向け独り言を宣っている。   うす暗がりだからだろうか、まるでホログラムを見ているかのような不自然さを覚えた。  さっきから腕をぶらぶらと胴の周りで遊ばせ、木々の枝葉に蔽われた空を仰いでいる。  腕の反動で視線が揺れる度に私の心臓は大きく拍動した。何かの拍子で振り向けば、私と目が合うことは想像に難くない。 それにしても―。  なぜ女と目が合うと危惧する私がいるのだろうか。こういう時は木の陰から様子をうかがうのが定石である訳で。  だから気付かれることは無いはずなのだ。 ―そう、私は棒立ちだったのだ。 やけに落ち葉が目立つ場所で、しかも女を正面に捉える形で。 端から見たら私も周りの空間から浮いていたに違いない。 時間という概念を忘れたかのように。  ゆっくり後退りしようと試みたのは一度や二度ではない。が、こればかりは体が言うことを聞かなかった。 「金縛り」という看板に偽りなし。  ポッと脳裏に浮かぶその言葉に、私はてっきり苛立ちを覚えるものと確信していたが、実際感じたのは安堵であった。   ランニング中だった私は、足が、その役目を尻に譲りたがっていることを知っていた。もちろん私は、足を休ませてやりたかったが、そのせいで我が身を危険にさらすわけにもいかない。いずれにせよ、たった今、私が気付かれていないのは金縛りのおかげに他ならないのだ。  背中で太陽がじりじりと下ってゆく。体感的な「長さ」というものが当てにならないと知る。  どうしてこうなった?無駄に残された時間でそんなことを考える。 ―事の発端はあの花を見つけたことだ。いつものランニングコースを走っていると、山の中腹に妙に目を引かれる。チラリと見た先には襷のような白い帯。 西日を受けて一層輝いているのだった。正体はというと、なんということはない、徒の皐月なのであって、よく見たはずの光景だった。 それなのに。 違和感。 私の気を引いた黒幕かもしれない。一輪だけ赤いような花が混じっているように見えたのだ。刹那、件の花は山の端に覆われ、皐月の生け垣は木々に隠され見えなくなっていく。 確かめたい―、私はどうしてもその花の赤さをこの目に焼き付けたくなった。 やがて現れた分かれ道でいつものコースから逸れ。普段は通らぬような道を縫って。山を駆け。草を薙ぎ―。 そして、気付いたらこれだ。 どれくらいこうして突っ立っているのか―、目の端でぬるりと伸びてゆく影の先を追う。今の私が知れるのは、日没まであまり時間がないということだけだった。 「祟りたいなぁ、、、祟ってやらないと、、、」  女が漏らす独り言は相も変わらず物騒だ。この世のものではないのだろう。 そんな風に真顔で答える私にとって、演劇か何かの練習だ、と信じたい分からず屋な私が一縷の望み。   そのためか、私の顔に浮かんだのは引きつった笑みだった。 分からず屋の楽観主義にこの場を脱するチャンスを委ねたというわけだ。  途端に解けた金縛りに喜ぶ私は、落ち葉たちから送られる喝采で絶望した。 尤も彼らは、私の足の苦役を称賛し、その役目を引き継いだ尻の勇気に敬意を表しているだけなので悪気はないのだ―。 そんなことを思いながら無神経な彼らを一瞥していると、視界に白いものが映っていることに気付く。 しまった。頼むから来ないでくれ―。 念じる私に神は初めて語り掛けた。 「そんなに祟られたいの?」  さっきまでの、おどろおどろしい言葉を乗せていた声とは到底思えない。それくらい透き通っていてか細いそれは、なぜかはっきり聞こえてくる。    私の驚きを知ってか、彼女はしゃがむと私の顔を覗き込んできた。生気を感じさせない顔は端正で、思いの外幼い。 このような思いを抱くこと自体が場違いであったと自覚した時、夕日が差し込み、辺りは茜色に燃えた。 「祟られたいなら祟ってあげる」  彼女の声が体に染みわたるのを感じ、脳が震える。涙が溢れた。だが不思議と祟られることへの恐怖はない。それは逃れられない運命だと諦めたからなのか、神との邂逅に対する興奮からなのか。 いや、おそらくそのどちらでもないのだろう。  気が付くとあの分かれ道に立ち尽くしていた。とっくに日は沈んだのだろう、空は星たちの集会所と化している。 はっとして、あの花の方を見た。 只々、山が深い紫をたたえているだけなのに。 山に抱かれて眠る彼女が見えた気がした。 私も山に抱き締められたくて、妖しく温かい闇に駆け出す。 とっくに足はその負担に耐えるだけの力を取り戻していた。
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