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第三話 兄もどき
加速度というものは、単位時間当たりに増加した速度のこと。だから、どんなに速く走る新幹線も、速度が一定ならば加速度は0なのだ。
そんなことを学校で習ったばかりだからか、いつもより車に楽しく乗れた。
「―お兄ちゃん、死んじゃうん?」
「何バカなコト言うとるんね。」
助手席のじいじに話しかけたのに。聞こえるようにため息をついたが、父の声から漂う言い聞かせるような余韻は吹き飛ばせなかった。
「巴ちゃん、着いたらお兄ちゃん起こしたってや。」
「うん。」
本当に死んだように寝ている。彼は確かに車に乗っているのだけれど。
どこか違和感を覚える。
加速度が働いていない感じがするのだ。お兄ちゃんだけ、時間が止まっている。まあ、気のせいなのだろうけれど。
さっきまで私たちに手を振っていた街灯は、気付けば三々五々、見送りを終えて帰っていく。その後ろ姿を見て私達は街から出たことを知った。
兄の顔も白からオレンジになった。オレンジって暖色なのに、さっきよりも死人のような顔。
「やっぱ、ウチも寝るけぇ。じいじ、起こして。」
「はいはい、寝ときんさい。」
兄の腕を抱き枕にして目を瞑り、さっきまでの事を思い出す―。
家に帰ってきたときのお兄ちゃんはどうしてか、お兄ちゃんではなかった。
もちろん見た目はお兄ちゃん。だけどそれはまるでお面をつけてるみたいで。どこがどうおかしいのかを具体的に指摘することはできないけれど。
お母さんもそう思ったみたいで、直ぐにじいじを呼んでいた。しばらくしてじいじは部屋から出てきたけど、その顔は見たこと無いくらい怖くって。
多分私はついてきて正解だったと思う。お兄ちゃんを殺しかねないくらいだったし。
それにしても、一体何が起きたんだろう。眼を強く閉じて考える。
一番現実的な仮説は、お兄ちゃんが「寺の墓を倒した」というもの。
帰ってきたときお面みたいな顔だったのは「やらかした」ことによる絶望を通り越した無表情。これなら寺に行くこととつじつまが合う。しかもこんな夜更けに。じいじが恐ろしい顔してたのも人様の大事な墓石を倒したから。
うん、多分正解。
こんなことを悶々と考えていると、私の身体はやがて負の加速度を感じ始めた。小さい頃からそうだ。どんなに熟睡していても車が到着すると目が覚める。だからよく狸寝入りして、お父さんに布団まで運んでもらったっけ。
あれ、なんでこんなこと思い出すんだろう。
「おい、巴、着いたけぇ。お兄ちゃん叩き起こしんさい。」
「―うん。」
お兄ちゃんの頬っぺたをペちりと叩く。びくともしない。もう一度叩いたところでじいじがお兄ちゃん側のドアを開けて言った。
「あんたぁ、車で待っとりんさい。」
「え、ウチもついてく。」
「はあ、来ても何も面白うないで。」
そういうとじいじがお兄ちゃんをお姫様抱っこして連れて行く。きっとじいじは鋼の腰を持っているんだろう。お父さんが慌てて後を追う。
こうして私を制止する者は誰も居なくなったのだった。
「あれぇ?」
車から降りてじいじの背中を追っていると。目が合ったのだ。お兄ちゃんと。
「何しとるんじゃろか、アイツ。」
理解できなかった。どうしてもじいじに抱っこしてもらいたかったのか。
―ん?ということは、さっき私が抱き付いていた時も気付いていたのかしら。
別にやましいことはないのに顔が熱い。
「ああ、三芳さん。」
「いやぁ、すまんのう。こんな夜更けに。」
いつもお盆に家に来るお坊さんがお堂から出てきてじいじの声を掛けている。かと思うと、じいじはお兄ちゃんを抱えてお堂の中に入っていった。
「あんたらは、休んどきんさい。」
お堂の戸が閉まり、後に残されたお父さんと私はお互いに見合わせる。そして月明かりに照らされる彼を見た。
この人はなんて心配そうな顔をしてるんだろう。
夜風は秋めいていたが、不思議と肌寒くはなかった。
「あら、三芳さん。どうもすいません。ささ、どうぞこっちでお休みになって。」
お坊さんの奥さんに通され、私とお父さんは一緒に応接間で待つことになった。これなら車で持つのと変わらない気もしていたが、独りで車の中にいるのを想像してからはお父さんに肩をくっつけていた。
「眠かったら寝とってええで。」
「―お兄ちゃん、何したん?」
「なんぞ、良うないもんにあたったんじゃろ。」
「ふーん。」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんよね。」
「―ほうじゃのう。」
根拠のない父への嫌悪は何故か解消された。いや、もともとそんなものなかったのかもしれない。
父に頭を預けてから、目を瞑るまでは早かった。
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