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第二話 酔い覚まし
「そりゃあ、山の神じゃろ。」
初老の男性が真っ暗な庭の方を見ながらそう呟く。ふーっと煙を吹かした。
大事な孫に煙を掛けまいという彼なりの配慮なのだろう。
それ故、彼がこっちを向いた事実は、私の呼吸に安堵をもたらした。
煙草は灰皿の上で最後の煙を吹いた後だったらしい。すりつぶされて、真ん中から大きく折れ曲がり、息絶えていた。
「、、、見えたんか。」
ぼそりと、だがはっきりと、私の眼を見据えて言う。最初私は、その視線が純粋な非難の意味合いを持つものと感じていた。
誰もが幼少の頃に見たことのある、蛇のようなそれだ。
とすると私はさしずめ蛙といったところか。
蛍光灯がジーっと鳴る音を急に聞く。
ふと、私は自身が蛙ではないことを知った。
たまに彼は何とも云い得ぬ目で私を見ていることがある。私を見ているはずなのに、私を見ようとしていない―もちろん、生理学的には私の居る空間を網膜で捉え、その画像情報を脳で処理してはいるのだろうが。
その眼に気付く度、私は彼の秘密を知ってはならないと肝に銘じたものだ。
だが、今、私を見つめる目の奥は、確かに「私」を映している。
知らない眼。
なのに見たことがある。いつだったか。
余程私が間抜けな顔をしていたのだろう、ふっ、と一笑した祖父はおもむろに立ち上がり、数歩のところに据えてある和箪笥の引出に手を掛ける。
茶色く日焼けした一枚の紙切れが握られた手を自然と目が追っていた。
その手が見えなくなった時、彼が何処かへ行ってしまったと気づいた。
よく考えればおかしな話だ。私がランニングシューズを履いて、玄関の戸を開けた時、最初に雪崩込んできたのがクマゼミの合唱だった。
しかし、あそこに咲いていたのは確かに皐月ではなかったか。
狂い咲きということにして片付けてもいいが、あの花を見つけた後に不思議な体験をしたのだから、私はあの花にまつわる記憶自体を疑うべきなのかもしれない。
相変わらず、蛍光灯の音がする。
「ホントに祟られたんかねぇ。」
嘯く。彼女がもちろんだ、と言いながら出てくるんじゃないかと期待して。そしてその期待が裏切られることすら予見して。
「おう、」
「出かけるけぇ、車に乗りんさい。」
声の主である父が廊下からひょっこり顔を出す。期待を裏切らない彼に向けた私の顔は、満面の笑みであったはずなのに、父は何故か怪訝そうだった。
「買い物?」
「寝ぼけたこと言いんさんな。山神に魅入られたんじゃろが?」
疑いの眼差し。勘違いではないはずだ。彼は愛する我が子を疑っている。
「何処へ行くん?」
「寺よ、寺。お祓いしてもらわにゃあ、心配で寝るに寝れんで。」
「さして心配なんかしとらん癖に。」
目は合わせられなかった。私が立ち上がるのを横目で確認した上で、父はそそくさと玄関の方へ消えていく。
廊下から見えるはずの庭はやはり真っ暗で。どこか余所余所しい。
為すこと無く自ら然り。それが温かさの源なのだよ。
車の外を流れる景色がそう囁いてくる。
それは子守歌だったのか、何かの呪文だったのか。
私の意識が途切れたのは車酔いする体質に依るものではない。
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