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 「遅くまですみません。ありがとうございました」  会社を施錠していると志築くんが隣で「しゅん」と項垂れていた。  彼が悪いわけではないのにどうしてそんなに落ち込むのか不思議になる。  それにむしろ、久しぶりに彼に関わることができて浮ついていたのはこちらだ。それを思うと私の方がしゅんとなるべきだと思う。  「仕方ないわ。でも見つかってよかった。池上さんも明日綺麗にしてくれるって言ってたし」  生ぬるい風が吹く夏の夜。いつの間にかもう、十時を過ぎていた。  さすがに疲れたけれど、見つかってよかった。  これで明日の憂慮はないはずだ。  「はい、助かりました」  志築くんが眉を下げて笑う。  私たちは並んで地下鉄に向かって歩いた。  隣を見上げれば彼がいる。  そのことが少しだけ嬉しいような恥ずかしいような、形容し難い気持ちが湧き上がる。  そして同じ電車に乗り、同じマンションに帰る。そのはずだった。  「俺はここで」  地下鉄の入口で彼は立ち止まった。  こんな時間なのに、これからどこで何があるのだろう。  でも「どこに行くの?」と聞けなくて「うん」と返してしまった。  「お疲れさまでした」  「…お疲れ様」  もう少し自分が器用なら、会話を引き伸ばせていたかもしれない。話題があれば違ったかも。  だけど、そんなこと出来なくて、じゃあ、と地下鉄に向かう階段を降りる。  だけどなんとなく気になって数段降りて振り返った。    ーーー彩羽さん  さっきまでいた彼はもう居ない。彼の代わりに綺麗な星空が見えて、彼の残像も声も淡く溶けて儚く消えた。    
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