16/29
前へ
/211ページ
次へ
 「ちょっと待って」  「待たない」  「じゅ、10秒」  「1秒も嫌だ」  彼は部屋に入るなり、私を抱き上げると寝室に向かった。コートもマフラーも鞄すら持ったままなのに、そのままベッドに倒れ込む。  「どれだけ俺がこの瞬間を待ち望んだか、わかります?」  彼は自分のマフラーを外しコートを脱ぎ捨てると、私のマフラーも外してくれた。コートのボタンを外されて腕を抜く。されるがままな私は彼を見上げたまま言葉の続きを待った。  「隣にいるのに触れられない。抱きしめられない。名前も呼んでもらえない。挙句支配人とイチャイチャする」  「イチャイチャって」  「楽しそうに話してた」  断じて彼のいう楽しい内容は一ミリもない。  週末のフェアの状況とプランナーの成績及びOJTの内容について話をしていただけだ。    全然一ミリも楽しくない。 「……今日ほどあの人に殺意を抱いたことはないね」  志築くんは眉根に皺を寄せると悪態をついた。  色んな意味で私は支配人に殺意を抱く時はあるよ、と言いかけたけど彼の様子を見て大人しく口を噤む。どんな時も火に油は注いではいけないのだ。  「……仕事中なのよ?」  「そんなこと、分かってる。でも頭では分かってても手が伸びてしまいそうになるんだ。生理現象だよ」  それ、全然意味がわからないし、言い訳になっていない。というか、むしろ清々しいほど開き直ってるじゃないの。    
/211ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4483人が本棚に入れています
本棚に追加