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 戸惑う私を他所に、志築くんは鞄から鍵を出すとオートロックを開けた。自動ドアが音を立てて受け入れを許可する。  「閉まりますよ」  「あ、はい」  こんな偶然あるのだろうか。漫画や小説では時々あるシチュエーションだ。実はお隣さんでした、というパターンは好きだったりする。  「何階ですか?」  「あ、三階で」  志築くんはエレベーターのボタンを二つ押した。三階と最上階の十階だ。  「……上、なのね」  「ええ。すみません」  「そういう意味ではないわ」  後輩なのに、と聞こえてきそうな彼の落ち込みぶりに慌てて否定した。寧ろ今の時代、後輩の方がマンションの上の階に住んだからって怒る人などいるのかしら、と疑問に思う。  そういう時代遅れの風潮は絶滅危惧種だと思っている。それはプリエール社員が平均年齢31歳と若いからかもしれない。  「では、また明日」  「ええ」  チン、とエレベーターの扉が開いた。  いつものフロアの向こうに自宅がある。  「おやすみなさい」  扉が閉まる間際呟かれた言葉に目を丸くしてしまう。  それはもう何年も聞いたことのない挨拶だった。不思議と心がふんわりする。  だけど、どこか恥ずかしさも感じて私は返すことができなかった。  
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