36/36
前へ
/211ページ
次へ
 翌日、いつも通りに自宅を出れば降りてきたエレベーターに志築くんが乗っていた。  エレベーターのボタンを押してしまった以上、見逃すこともできない。かといって階段は面倒くさい。  「おはようございます」  語尾に音符が付いた気がするのは気のせいだろうか。私は彼に少しだけ視線を向けて直ぐに前を向いた。  「おはよう」  「今日はフェアですね。昨日の分取り返します」  妙に意気込んでいる彼を少しだけ微笑ましく思いながら「お先に」とエレベーターを降りてエントランスを潜る。  「どうして先に行くんですか」  「どうして一緒に行く必要があるの」  「同じ職場じゃないですか」  「通勤時間はプライベートです」  朝から子犬の猛追に遭い、若干ぐったりしたまま職場に向かう。彼の言う通り同じ職場だけれど、せめて少し距離感を考えてほしい。  「お願いだから、同じマンションだって言わないでね」  「どうしてですか」  「どうしてって」  ただでさえ、志築くんの補佐で目立っているのに、という言葉を飲み込んだ。彼だって好きで目立っているわけではないのだ。  「……個人情報です」  言い逃げるように、開いた扉から降りると一目散に改札を潜って最短経路でプリエールに向かう。  その後ろで、置いてきぼりをくらった志築犬が目を丸くした後、楽しそうに目を細めていることに気づくこともなく、ただひたすら職場を目指して早歩きをしたのだった。  
/211ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4485人が本棚に入れています
本棚に追加