第一話 『妖精の痕跡』

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第一話 『妖精の痕跡』

 長谷川伊織は肩で息をしながらロンドンの郊外を駆けていた。  半年前、一人の男が古城で誰かに殺害されたのだ。ネットのニュースの片隅にしか載らなかったその事件は、未解決事件として捜査を早々に打ち切られてしまった。理由は事件の内容があまりにも奇妙で不可解だったからだ。  伊織は握りしめたメモを頼りに一軒の屋敷を目指した。彼が目指しているのは、クリストファー・F・アシュリーの屋敷だ。  クリストファーはロンドンでも有名な変わり者で、日本で言う所の郷土研究をしているという。何故そんな男を尋ねようとしているのか、それには深い訳があった。 第一話『妖精の痕跡』  伊織は今年で23歳だ。大学卒業と同時にずっと憧れだった記者という仕事に就く事が出来た。  伊織が就職したのは今夜の晩御飯から宇宙の真理まで幅広い雑誌を手掛けている大手出版社で、喜び勇んで出社した初日に人事でお世話になった上司に手渡された一枚の封筒。中には伊織の配属先が書かれていた。 『迷宮事件奇譚 ロンドン支社』と。  伊織は手渡された配属先を思わず二度見して上司にこの支社はどこにあるのか問い詰めた。 『もちろん、ロンドンだよ! 素晴らしい記事を期待しているよ』  その笑顔を見てこれが冗談でも何でもないのだという事を悟った伊織は、契約したばかりの家をすぐさま引き払って、単身ロンドンにやってきたのだった。  そして辿り着くなり適当な編集長の町田司に仕事を教わり、その三日後にこれである。 「なんで、僕が、こんな、目に……」  伊織は息切れしながらメモをもう一度確認してクリストファーの屋敷を目指す。本当はタクシーを使いたかったが、タクシーは経費で落ちないと言われては足を使うしか無かった貧乏駆け出し記者の伊織である。  ようやくメモにあった屋敷に辿り着いた時には伊織はもうぼろ雑巾のように汗と埃に塗れていた。 「はぁ、はぁ……ここか……何だってこんな辺鄙な所に住んでんの……」  都会からは少し離れた場所にあった大きな屋敷を見上げて伊織は呟くと、どうにか呼吸を整えて呼び鈴を押した。 『どちら様でしょう?』  呼び鈴から聞こえてきたのは優し気な男性の声だ。クリストファーは変わり者で簡単には会えないだろうと聞いていたので、きっとこれは屋敷に勤めている誰かだろうと判断した伊織は大きく息を吸い込んで言った。 「私、雑誌、迷宮事件奇譚から来ました、長谷川伊織と申します。先日お電話させていただいた時にその旨お伝えしましたが、どうかお話を伺わせていただけないでしょうか?」 『ああ……そう言えばそんなお話がありましたね……ですが、私はイエスとは言わなかったはずです』  その言葉に伊織は驚いた。どうやら呼び鈴に出たのはクリストファー本人だったようだ。 「それは……そうですが……お話だけでも聞いてはいただけませんでしょうか!」 『私の話を聞いた事で事件の何かが解決するのなら、警察はいりませんよ』 「それはそうなのですが! どうしてもあなたの意見が聞きたいのです! 今回の事件は、レッドキャップがやったに違いないと言われているんです!」 『……レッドキャップが……ですか?』 「は、はい!」  食いついた! 伊織は思わず拳を握りしめて呼び鈴に一歩近寄った。そんな様子が中から見えたのか、呼び鈴越しに小さなため息が聞こえてくる。 『仕方ないですね……今、開けます』 「ありがとうございます!」  第一段階、どうにかクリアである。伊織はその場で飛び跳ねそうになるのをどうにか堪えてドアが開くのを待った。  しばらくすると屋敷のドアが開き、中から長身の若い男が姿を現した。長い銀髪を後ろで緩く三つ編みにしたその男は、まるで蝋人形のように美しい。 「はじめまして。私がクリストファーです」 「あ……は、はじめまして! えっと、長谷川伊織と申します」  その彫刻のような顔立ちに慄いた伊織が震えながら言うと、それを見てクリストファーが小さく笑った。 「最近の雑誌社は未成年を記者に雇うのですか?」 「……は?」 「だって、あなたまだ16、7でしょう?」  真顔でそんな事を訪ねて来るクリストファーに伊織は一瞬引きつった。  確かにアジア人は海外では若く見られがちだと聞いている。その中でも伊織は特に童顔な方だ。日本でさえ未成年に間違われて補導された事も何度もある。  しかし、何故初対面の人間にそんな事を言われなければならないのか! 「僕はこう見えても23歳です!」  拳を握りしめて怒鳴った伊織にクリストファーは一瞬目を丸くして口元に手を当てて笑い出した。  「これは失礼しました。どうぞ、お入りください」 「失礼します!」  笑いながら体をズラしたクリストファーの隣をズンズンすり抜けた伊織に、クリストファーはまだ笑っている。本当に失礼だ!  クリストファーに案内されて通された部屋は、何だか気味の悪い部屋だった。まるでついさっきまで何か儀式でもしていたのか? と思う程不思議な匂いが充満していて、薄暗い。 「どうぞお掛けください。面倒な前置きはいりません。レッドキャップが何をしたんです?」 「殺人です」  真顔でさっさと話を始めようとするクリストファーに伊織も応えた。こちらとしてもさっさとこの薄気味悪い部屋を出たいのである。  その時、伊織の足を何かが撫でた。その気配に驚いて変な声を出して立ち上がった伊織を見て、クリストファーが首を傾げる。 「どうしました?」 「い、いえ……今、足元に何か……気のせいか」  ふと足元を見渡しても何も居ない。 「……気のせいでしょう。それで、レッドキャップが殺人とは穏やかではありませんね。どうしてそんなお話になったのです?」 「それが、これを見てください。生憎刑事に知り合いは居ないので写真じゃなくて僕の絵なんですけど……殺された男の親友の方に話を聞いて、それを元に絵にしたんです」  そう言って伊織は一枚のイラストをクリストファーに見せた。クリストファーはそれをしげしげと眺めてポツリと言う。 「絵が上手なんですね。これは古城、ですか」 「はい。殺された男の名前はジョン。配管工をしていたそうです。特に恨まれるような人物ではなく、この日は仕事で城の配管の調査に行くと親友に話して家を出たっきり、翌日になっても戻っていない事を心配に思った親友が警察に通報したそうです。そして一人の警官が城に探しに行った所、城の地下室でジョンがうつ伏せに倒れていて、赤い帽子を被った男が見下ろした状態で側に立って居た、と」 「なるほど。それで赤い帽子を被っていたからレッドキャップの仕業だと?」 「いえ、流石にそれだけでは誰も妖精のせいだとは思いません。そう思わせたのは、ジョンの死に方と赤い帽子の男の行動です」 「と、言いますと?」 「発見者の警官はまだ新米の敬虔なクリスチャンだったそうで、ロザリオをいつも身に着けていたそうなんです。すると赤い帽子の男は警官がジョンに近づこうと地下室に入った途端、悲鳴に近い叫び声を上げて消えたというんです」 「……ロザリオを見て消えた、と?」 「はい。ジョンは殺されていました。凶器は斧だったそうです。争った形跡は全く無かったそうで、一息に殺したのではないか、と言うのが警察の判断だったそうで以後、その消えた犯人が誰か分からないまま捜査は打ち切られ、その話をまとめて犯人はレッドキャップに違いないという噂が出たと言う訳です」  伊織がそこまで言って息を吐くと、クリストファーは腕を組んで何かを考えるように庭先に視線をやった。 「なるほど。状況だけ聞くと確かにレッドキャップがやったとも思えますね。ですが、それは少々ナンセンスでは? 大昔ならいざ知らず、この時代に妖精が殺人ですか?」  クリストファーの意見はごもっともである。それは伊織にもよく分かっている。  けれど、これだけ科学が進んでも未だに解決に至らない事件があるのは、つまりそういう事なのではないか。  それを調べるのは本来警察の仕事であり、一介の記者の仕事などでは無い事もよく分かっているがこの事件を調べるに当たってジョンの親友に話を聞きに行った所、彼は酷く落ち込んでた。まるで縋りついて来るみたいに伊織に抱き着き、真相が知りたいと泣いていた。ジョンとこの男は、学生時代からの親友だったそうだ。 「お人好しなんですね、あなたは。仕方ありませんね。しかし警察は何をしているんです? 足跡なり犯人の痕跡なりをさがせばいいのに」 「それこそが! この事件の不可解な所なんですよ!」  クリストファーの言葉に伊織は思わず机にダン! と手を置いた。 「そうなのですか?」 「はい! 何の痕跡も無いんです。ジョンの足跡以外は、誰の足跡も無かった。凶器の斧にも扉にも指紋など残っていなかったそうです。それどころか、どこにもジョン以外の誰かが入り込んだ様子がないのです」 「それはおかしいですね。レッドキャップはそこに居たのでしょう?」 「まぁ、そうなんですけど。え、レッドキャップって指紋とかあるんですか?」  キョトンとして言う伊織に、クリストファーは唐突に噴き出して咽る。 「す、すみません。いえ、私の聞き方がいけませんでしたね。誰も居なかったというのは変ですね、という話です。その警官が駆けつけた時、少なくとも誰かは居た。そうですよね?」 「はい」 「という事は、何の痕跡も無い訳がない。何か見落としているだけでしょう」  そう言ってまだおかしそうに目尻の涙を拭うクリストファーを軽く睨みつけて、伊織は着席した。 「でも、本当に何も無かったそうなんです。辛うじて警官の指紋と足跡はあったそうなんですけど」 「ふむ……そもそもレッドキャップというのがどういう妖精か知っていますか?」 「えっと、悪い妖精、ですよね? 日本で言う鬼みたいな?」 「悪い妖精、というのはちょっとあれですが、まぁ大体そうです。アンシーリーコートと言って、人間を襲う可能性のある妖精と言えばわかりやすいかもしれませんね。そんな彼らが人を襲う時、それは自分のテリトリーに入り込んできた時です。つまり、今回の場合は古城ですね」  クリストファーが言うと、伊織は真顔で頷いてメモを取った。元々オカルト的なものは信じない質だが、それが事件解決の糸口になるというのなら、話は別だ。 「長いかぎ爪を持ち、斧を武器としている。ジョンの死因は斧による惨殺なのですよね?」 「そうです」 「私は郷土研究をしているので妖精についてはそこそこ知っていますが、彼らは何か人智を超えた存在という訳ではありません。犬や猫、人間のように目には見えない種族だと思っています。つまり、そんな彼らが例えば殺人を犯した場合、やはり何かの痕跡は残ります。一度現場へ行ってみましょうか」 「え⁉ い、一緒に来てくれるんですか⁉」  驚いた伊織にクリストファーは真顔で頷いた。 「仕方ないでしょう? あなたはレッドキャップにも指紋があると思っているようなので」  含み笑いを浮かべるクリストファーを伊織は軽く睨んで立ち上がった。 「行きますよ!」 「はいはい。では準備してきますので、先に表で待っていてください」  それだけ言って部屋の奥に引っ込んでしまったクリストファーを横目に伊織は屋敷を出た。すると、いつの間に呼んだのか一台のタクシーが停まっている。  唖然として見ていると、後ろから遅れてやってきたクリストファーの声がした。 「何してるんです? 行きますよ」 「あ、はい。あのこれ、うち経費じゃ落ちないんですけど……」  何だか申し訳ない気持ちになりつつも伊織が言うと、クリストファーは何てこと無い顔をして首を振る。 「私が払います。普段外に出ないので、少し歩くのも重労働なんですよ」 「い、いいんですか? ありがとうございます。では遠慮なく」  とんでもなくラッキーだ! などと思いつつ嬉々としてタクシーに乗り込む伊織を見て、クリストファーは肩を揺らした。  現場の古城はクリストファーの屋敷からはさほど離れてはいなかったが、観光地という訳でもないようで想像していたよりもずっと寂れている。
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