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鼻で笑われたような気がして、違和感を覚える。
良かったとは、どういう意味だ?
「相馬という部下を、覚えていますか?」
突然飛び出した名前に、私は戸惑った。相馬……誰だろう。
「先日偶然にもシアトルでばったり会いましてね。今は向こうで、邦人企業向けに現地メディアとのコーディネーターのような仕事をしているそうです。あっちの大手広告代理店にもかなり顔がきいて、向こうで取り扱われている関連広告の三割程度は彼女を介しているそうですよ。当社も面倒見て欲しいとお願いしたんです。いやぁ、ああいう優秀な人材をみすみす失ったのは勿体なかったなぁ。箱崎さんも、そう思いませんか?」
「いや、私は海外の事情までは……」
「それから田人さん。さすがに彼の事は覚えていますよね?」
私の表情から察したように、高久が言葉を継ぐ。
「残念ですね……。彼は今も精神疾患に加え、アル中で入退院を繰り返しているそうです。あんなにやる気があって、誰よりも勉強熱心な人だったのに……。きっと今なら労災認定を受けて、会社から補償を受ける事だってできたのでしょうが、当時はそんな制度も仕組みもまだまだ社会的に認知されていなかったから、単なる自己都合として退職し、再起の機会すら得られなかった」
「高久君……すまんが私には、一体何の話やら……」
「遠藤はどうです?」
困惑する私に、身を乗り出すようにして高久は続けた。
「やっぱり覚えてませんか。でも彼の事は思い出せると思いますよ。箱崎さんに殴りかかって会社をクビになった男です。箱崎さんも全治一週間の重傷を負ったんですから、覚えていますよね? 骨折したはずの箱崎さんがゴルフ三昧を楽しんでいたという当時の逸話も残っていますし」
流石にカチンと来て、私を彼を睨みつけた。
「高久君、一体どういうつもりだ! 君は、何を……」
「もう一人、高久という男を知りませんか?」
高久はにやりと冷たい笑みを浮かべた。
「当時のあなたはカッとなるとすぐに身近にあるものを投げつける癖があった。その時たまたま近くにあったのはカッターナイフで、咄嗟に避けようとした彼の手のひらを貫いた。彼の手には、未だにその痕が残っているそうですよ」
高久は私の前に手のひらを突き出した。ちょうど中央のあたりに刻まれた引き攣れたような痛々しい傷を見た瞬間、二十年前の記憶がフラッシュバックする。
勢い任せに投げつけたカッターナイフ。うずくまる高久。駆け寄る人々。床に滴り落ちる鮮血――。
「全部、あなたの責任です」
言葉を失う私に、高久は言い放った。
「相馬さんも、田人さんも、遠藤君も……他にも大勢の人間が、あなたの手で潰されていった。何人もの優秀な人材が、あなたの下で失われていった。鬼軍曹だなんて呼ばれて良い気になったあなたから、理不尽な怒りを四六時中ぶつけられて。夢と希望を抱いて勤めた会社を、絶望に打ちひしがれて去って行ったんです」
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