鬼軍曹に花束を

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               ※  エントランスを潜った瞬間、どっと全身を疲労が襲った。  ばくばくと動悸が波打ち、頭痛がする。  最後の最後に一番弟子と信じていた人間にまで好き勝手罵られるとは、情けない。惨めさに打ちのめされそうになる自分を、必死で奮い立たせる。  いずれにせよ、早期退職に応じたのは私の側にも会社に対する不信感が膨らんでいたからだ。生き恥を晒すぐらいならこっちから腹を掻っ捌いてやる、と下した決断だ。  仮にも取締役を務める人間があんな小者だったと思えば、かえって諦めもつく。  長かった会社員勤めもひとまず今日で終わりだ。思えば妻の芳恵にもずいぶんと苦労をかけてきた。明日からは芳恵にも少しぐらい良い思いをさせてやろう。もう長い事ご無沙汰だが、今夜あたり久しぶりに抱いてやるのも悪くないかもしれんな。  しかし不思議な事に、インターホンをいくら鳴らせど、中から応じる気配はなかった。  訝しく思いながら自分で鍵を開けて入ると、室内に芳恵の姿はない代わりに、テーブルの上に一枚の書き置きが残されていた。 〈ごめんなさい。明日からあなたが家にいて、一日中ああでもないこうでもないと小言を言われ続けると想像しただけで、耐え切れませんでした。気持ちの整理がついた頃、こちらから連絡します。どうか探さないで下さい〉  ――どうやら私は会社だけでなく、妻にも愛想を尽かされたらしい。  絶望的な気分で、抱えていた花束をテーブルの上に投げ出す。  弾みでこぼれ落ちたメッセージカードだけが〈おめでとうございます〉と、私を祝福し続けていた。 〈了〉
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