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――血の匂いがする。
父王の命により、弔問の遣いとして都を離れていた高市皇子は、近習数人を引き連れ、以前、都であった近江の地にやって来ていた。かつての戦乱に焼かれた森に緑は見えず、薄墨色の水面には波一つない。
あの日もそうだった。叔父と甥、兄と弟、父と夫が血を流して争ったあの日。あの日も近江の水面は、こんな陰鬱な色合いをしていた――
「――お前と十市の婚姻を、なかったことにするって?何を言ってんだよ、大友?」
声を荒げた従弟に向い、青年――大友皇子は、穏やかに笑って見せた。
――友と呼ぶことのできる、唯一の存在だった。
中大兄皇子と、大海人皇子。時の大王の皇子の長子として生まれながら、母の身分の低さで嫡子とは認められず。その苛立ちを、真実分かち合えたのは、高市にとって大友ただ一人であったし、大友もまた、心のどこかで同じ思いを抱いていたのかもしれない。数ある異母弟を押しのけて、同母の兄弟とかわりない誼を結び――異母姉である十市が彼に嫁いでからは、真実「兄弟」と呼べる立場にあった。
「……高市、お前、叔父上から便りが届いたのだろう?」
天智大王の病床で後継に指名され、それを断って吉野に篭った、大海人皇子。置き去りにされて近江宮に残った高市の許に父から密書が届いたのは、ほんの数日前のことだ。
「ああ。俺に近江を出るように言ってきた。……戦になるのか?」
「――なるだろうな。私にはいざという時に後ろ盾になってくれる、母の一族がない」
「そんなもん、俺にだってねぇよ!」
高市の母は胸形氏の娘、豪族としての財力はあるが、父の後継として認められるだけの地位ではない。事実、今回の吉野行きに大海人が連れて行ったのは、鵜野皇女とその子である草壁皇子だった。人質として敵方に残して、例え殺されたとしても惜しくない。母の身分のない息子は、父親にとってその程度の価値でしかない。
「戦になって敵対したところで、あの親父が額田の娘を死なせるわけないだろう。べた惚れなんだからな、今でも」
愛しているのは最初の妻である額田で、正妻は大王の娘である鵜野。ならば父にとって自分の母は何なのだろうと、高市は思わずにいられない。振れば黄金が降って来る、金のなる木か。
「叔父上が死なせたくなくとも、それを周囲が許さぬ場合もある」
もしも……と。年長の従兄は、切れ長の瞳で遠くを見る。
「私が死ねば、あれは先王の后として女王に推されるかもしれない。そうなれば叔父上とて、苦渋の決断をせねばならなくなる」
「お前、そういうことは――」
「もしも、のことだ。もしも、そうなった時には、高市、お前がお前の意見として叔父上に進言してくれ。頼む、俺の代わりに、十市と葛野を守ってくれ」
大友と十市との間に生まれた息子はまだ乳飲み子、どうしても「おじうえ」と呼ばれたくない高市が「あにうえ」と教え込もうとうとして、十市に拳骨を喰らったのは、つい最近のことだ。
「縁起でもないこと言うなよ。ようはお前が死ななければいいだけの話だろ。俺は嫌だぞ。あのじゃじゃ馬を卸せるのなんて、お前くらいのもんだ。お前が生き残って、一生守ってやればいいだけの話だろうが」
「だから、もしも、の話だ。もしもこの先、戦が起こって、もしも私が生き残らずに、お前達が生き残った時は、だ」
もしも、と。くどい程にそう繰り返していた大友は、この時、既に自身の未来を予感していたのだろうか。
――もしも、自分が生き延びることができなくとも。
「それでも、私は十市には生きていてもらいたいのだ……」
高市が都に戻ってきた時、宮の空気は騒然としていた。厩の舎人に乗ってきた馬を預けて起こった出来事を聞き、愕然とする。――長年恐れ続けてきた事態が、現実となった。
「十市、おい、しっかりしろ!」
訪いも入れずに室に飛び込んだ弟の無礼を、異母姉は咎めはしなかった。床にのべられた褥に横になったまま、ぴくりともしない。白い喉許に捲かれた晒を指で手繰って、高市はその場に膝をつく。
「十市、お前、どうして……」
大友の言った通り、彼らの婚姻を否定するよう父に進言したのも、暇さえあれば姉の居室に入り浸ったのも、すべてはこの事態を恐れた為だった。誇りを傷つけられれば、気の強い十市は抗わすにはいられない。夫を亡くし子と引き離されながらも凛と生きようとした彼女の、気を紛らわす存在にくらいにはなれるかと思って。
「昨日、葛野様がおいでになられてから、ご様子がおかしくて。朝になった時にはもう……」
自身の懐剣で喉を突いて、果てていた。
十市皇女つきの采女の言葉に、思わず唇をかみ締める。無意識に探ったのは昨日、近江にいる少年から託された文だった。――手習いを始めて時がたち、大分しっかりしてきた少年の実母への手紙。
「お前の葛野は生きてる。生きてるんだよ、十市……」
大友が高市に託した、もう一つの願いがそれだった。豪族の娘を母に持つ高市には、母方の氏族や親族が多い。その中で同じ年頃の幼子と葛野を入れ替えて、他人の子供を大友の子供として飛鳥に送った。
十市に真実を知らせようと、思わなかったわけではない。しかし、滅ぼされた先の王朝の遺児は后よりも厄介な存在だ。十市が入れ替えられた子をわが子と信じれば信じるほど、葛野の安全は守られる。
冷えて硬くなった手に彼女が愛してやまないわが子の文を握らせて、もう一方の手に、懐から取り出したものを握らせる。黄金色の花弁――春に野山を彩る山吹の花だった。都に戻ってくる途中に手折って、高市が懐に入れていたものだ。
「山吹の……立ちそよひたる山清水」
――すまない。守りきれなかった。友へ許しを乞う言の葉は、いつか自分がそちらに行く時に持って行くから。
もう無理に偽る必要などはない。なあ大友、久方の夫婦水入らずを邪魔したりはしないから。お前がこの女を迎えに行ってやってくれ。
「……汲みに行かめど道の知らなく」
応えはない。ただ艶やかな黄色の花弁の残像だけが、いつまでも眼裏に残った。
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