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2話
――大友様こそ、父君のお跡継ぎにふさわしい。
そんな囁きが聞こえはじめたのは、彼が最早、少年とは呼べない年頃に達した頃だった。
学問の素養は父の書庫に入り浸っているうちに自然に身についたものだし、武芸については幼い頃、一人野山で遊んで身につけた体力が他の同年代の少年達より優れていただけに過ぎない。ましてやただ単に羽目を外すのが苦手な性分を「実直」などと評されては、後はもう、笑ってでもいるしかない。
その日、剣術の稽古を途中で切り上げた大友皇子は、王家の宮からさほど離れていない丘の上で、一人で寝そべっていた。鼻先を漂う草木の香は柔らかく、見上げる空はどこまでも、青一色で染めた抜いたかのように青い。
仮にも時の大王の長子が、共も連れずに一人で出歩くなど本来ならばありえることではない。そのありえなさがまかり通ってしまうのは、大友が本来、皇子と呼ばれる立場にはなかった為だ。
――大友様こそ、父君のお跡継ぎにふさわしい。……ただ、惜しむらくは、母君の身分が低すぎる。
大友の母はもともと大王の身の回りの世話をしていた采女で、まだ中大兄皇子と呼ばれていた頃の父が、気まぐれに手をつけた相手だった。采女は地方の豪族が服従の証に送り込んできた娘であり、皇子を生んだところで妃の列に加えられることもない。生まれた息子である大友も、異母兄が早世し、他の妃に男子が生まれないという偶然が重ならなければ、皇子と呼ばれることさえなかっただろう。幼い頃の彼が遊び相手もなく、一人野山を駆けるしかなかったのもその所為で、成長した後、父の書庫にしか居場所がなかったのもその為だ。他の妃に男子が生まれればすぐに追い落とされる立場にある皇子になど、肩入れする者がいるわけもない。
大友が学問を修めて人より優れた成績を残したのも、剣術の稽古で豪族の子弟を軒並み倒して見せたのも、そうしなければそこに居場所が――自分と母の居場所がなかったからだ。だが彼がよい成績を残すと決まって、どこか寂しそうな目をして笑っていた母は、結局、誰にも顧みられることなく逝ってしまった。
――俺はもしかすると、この世界を憎んでいるのかもしれないな。
するり……と。鞘から引き抜いた剣の切っ先を目の前に翳してみる。もしもこの切っ先を、父王に向けたなら。彼を息子と呼び、気が向けば側に呼んで頭を撫でることもあった男が血煙を上げて倒れて行く情景を想像し、密かに口の端を持ち上げる。
「……阿呆らしい」
鋼に映った己の姿に辟易した大友が剣を鞘にしまった瞬間、大量の緑の葉を撒き散らし、空から何かが降ってきた。
「ちょっと高市!あんたの所為で枝が折れたじゃない。どうしてくれるのよ?」
「何だよ、十市が乗っかってる時から、枝なんかみしみしいってたじゃないか!十市が重すぎた所為だろ!」
「――何ですって?」
「……どうでもいいがお前達、早く私の上からどいてくれ」
空から降ってきたのは一人の少女と少年――大友から見ると従妹にあたる十市皇女と、その異母弟である高市皇子だった。彼らが頭から盛大に緑の葉を被っていることと、遅れて落下してきた太い木の枝から想像するに、大友の頭上近くにあった木の枝に登っていて、その枝が折れて落下してきたらしい。
いくら十に満たない年齢の少年と少女とはいえ、まともに身体の上に落ちてこられれば、その衝撃に目を白黒させるしかない。彼らに目立った傷がないのは幸いといえたが――彼らを受け止めた大友の身体の方は、見るも無残な青痣になっていることだろう。
「ごめんなさい。わたし、あの枝になってる実を取ろうと思ったの。だってとても赤くて、美味しそうだったんだもの……」
ようやく自分が今、従兄の上に馬乗りになっていることに気がついたらしい。裳裾を押さえて飛びのいた少女の目の縁に、じわりと涙の雫が浮かび上がる。父の弟の娘である十市は今年で九歳。大王の皇子と歌詠みで絶世の美女である女王との間に生まれ、この上なく愛され甘やかされた挙句――手のつけられないお転婆に育ちあがってしまった少女である。
「木の実……?」
少女の言葉に、大友はぽかんと口を開けて、見上げる程高い位置にある枝を見る。木の枝に止まってその果実を常食とする野鳥でもあるまいし……あれ、人間が食えるんだろうか?
「十市、高市。お前達、そんなに腹が空いていたのか?」
「だって、大友様、お母様が亡くなってから、ずっと元気がなかったから。だから美味しいものを食べれば元気になるんじゃないかと思ったの……」
涙を浮かべた従妹の言葉に、大友は今度は唖然とする。
――元気がなかった?俺が?
感情を殺すことには慣れていた。与えられる賞賛も、その裏にこめられた侮蔑も、すべて凍えた微笑の仮面の下でやり過ごして生きてきた。
母が死んだ時もそうだった。妃でもない女の死に、嘆くふりさえする気のないらしい父と、いやいややってきた異母弟妹を尻目に葬儀を取り仕切り、そのすぐ後に行われた学問の審議で、最高点を取って見せた。
「お、俺だって、大友が元気がないの気づいてたんだからな!俺だって大友に元気になって欲しくて――」
誰一人構う者もなかった皇子に、どういうわけかこの従妹弟達は幼い頃から酷く懐いてきた。大友自身、妃腹の異母弟妹には距離を感じていたから、正直、母と彼らだけが家族だという気がしないでもない。
「大友様……?」
どこか怪訝げな十市の言葉に、大友は、自分が腹を抱えて笑い出していることに気がついた。思わずぽんぽんと、両手で少女と少年の頭を叩いてしまったのは、照れ隠しだ。こんな風に誰はばかることなく、感情をむき出しにしたのはいつ以来だろう。俺にもまだ、めでたいところが残っていたのだという実感が、何故だかとても温かい。
「……大友様、元気になった?」
「ああ、もう私は元気だから。ほら、一緒に宮に戻ろう。厨で菓子でも貰って食うか」
差し出した大友の掌に、おずおずと十市は白い手を重ねてきた。もう一方の手で高市の手を握り締め、宮へ戻る道すがら、三人で声を重ねて童歌を口ずさみながら、大友は思った。
――もしかしたら、世界を憎んでいるのかもしれない。……だけど。
この小さな温もりが二つ、手の中にある限り。
――世界はまだまだ、捨てたものではないのかもしれないな、と。
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