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3話
――最近、彼は機嫌が悪い。
理由は明確だ。ほんの数ヶ月前、異母姉である十市皇女と従兄の大友皇子が華燭の式を挙げ、めでたく夫婦となったことが原因だった。
思えば少し前から兆候はあった。ここ一年くらい、それまでは十市も高市もほぼ同等に扱っていた大友が、十市から微妙に距離を置きはじめたのは気づいていたし――それでいて高市が大友の居室を訪ねると、先に十市が来ていることが多かった。一度など、訪いを入れずにいきなり戸を開けて、中で随分と近い距離にいたらしい二人が、慌てて飛びずさるところに出くわしたこともある。
今にして思えば、あれが世の大人達のいう「相愛」というものであり、そして「相愛」の二人が夫婦になってしまった以上、弟であろうと従弟であろうと、そこに他人の挟まる隙間など微塵もないのだろう。
「おもしろくねぇ……」
鞘ごと外した剣を振り上げて、意味もなくぶんぶんと振り回す。一つ上の中の良い姉が嫁いで寂しいのだろう、とは周囲の勝手な憶測で、実際のところの高市の思考は、憶測とはまるで違うものだった。
――十市なんか、いなけりゃいいのに。
十市と大友が結婚なんかしなければ、今日の剣の稽古は大友につけてもらえたし、昨日の学問の問題だって、わからないところは手取り足取り教えてもらえたのだ。
それが最近では、何をするにも十市がしゃしゃり出る。剣の稽古をしていれば弁当を持ってきて二人の――というよりは大友の――雄姿を見つめ、学問を問えば、そんなものもわからないのかと罵声が飛んでくる。遠乗りに行こうと誘えばわたくしも行く、などとのたまう始末で、そんな十市の我がままを、大友はいつも微笑一つで受け入れてしまうのだ。
――ようするに、仲の良い従兄を異母姉に取られた気がして、嫉妬して、むくれている。それが現在の高市皇子の現状だった。
「ああ、もう、おもしろくねぇ!」
ざりっ……と鈍い音がして、鞘になぎ倒された枝木が宙空に舞う。緑の垣根の合間にひょこり、と黒い頭がのぞいたのは、その時のことだった。
黒い頭の持ち主は、「みなべ」と名乗った。字がわからないのは、当人がまだ文字を書けないくらいの年齢だからで――精々、六、七歳くらいだろう。黒い瞳がぱっちりとした、なかなか愛らしい顔立ちの娘だが、こんな子供を一人にして、お付きの者はどこに行ったのだろう。――あやうく、剣の鞘で頭をかち割るところだった。
「しっかし、どうしてくれるんだよ、この状況……」
膝の上に積まれた野花を口に含んで、高市は思わず天を仰ぐ。頭には野花の冠。今、高市の膝の上ですやすやと健康的な寝息をたてている少女が、彼の頭に乗せ上げたものだ。
もともと人見知りしない性質なのか、少女は初対面の高市にすぐに懐いてきた。その細い手首には、高市の頭上にあるのと同じ花の腕輪が巻かれている。どうやら、おそろいにしたかったらしい。
「……おい、起きろって。俺は枕じゃないんだぞ」
迂闊に触れれば折れてしまいそうな細い肩を揺さぶって、泣き出したいような思いを味合う。彼がよく見知った少女は異母姉の十市一人だが、彼女は花摘みより木登りを、ままごとよりは川で魚を捕まえるのを好む少女だった。こんないかにも女の子と言った風情の少女の取り扱いなどわからないし、剣の稽古を途中で抜け出してきた手前、そろそろ戻らないと叱責も恐い。
高市の声が聞こえているのかいないのか。う……ん、と小さくうめいて寝返りを打って、またすやすやと寝入ってしまう。再び揺さぶろうとした手を途中で止めて、高市は深く息を吐き出した。
つい先程まで、澄んだ可愛らしい声でどうでもいいことをぺらぺら喋っていたのに。その無邪気さが――愛らしいような、憎らしいような。
「御名部様!まあ、高市様とこんなところにいらしたのですか?」
高市の物思いは、駆けつけてきた采女の甲高い声に遮られた。――何だ、ちゃんとお付きの人間がいるんじゃないか。何故だか酷く安心した高市は、妙齢の采女にむかい、ひらひらと掌を振って見せた。
「何か、懐かれちゃってさ。こいつ、何処の子?」
かなり外れにあるとはいえ、ここはまだ大王家の敷地のうちで、だからこの少女も、大王家に連なる誰かの子であることは推測がついていた。この辺りで出会う人間は、使用人を除いては大体が親戚だ。
「御名部皇女様でございますよ。大王の姫君でございます」
揺すっても呼んでも起きない皇女を抱き上げて、宮まで連れて帰ることにしたらしいが、六、七歳まで育った幼児の身体は、女が一人で持ち上げるには重すぎる。さりげなく手を出して力仕事を引き受けた高市は、もう少し、この子供特有の高い体温と、切ないような甘酸っぱいような、訳のわからない感覚を味わうことにした。
「へえ、じゃあ、伯父上の娘か」
ということは大友の異母妹――高市にとっては従妹にあたる。またどこかで出会うことになるかもしれないな……と考えた高市は、この邂逅が彼の人生にもたらす重大な意味に、まだ気づいてはいなかった。
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