第1話

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第1話

 縁側から見える整った小庭。風が吹くとさらさらと鳴る葉っぱの音が心地よかった。  隣には、にこにこと優しい笑顔を向けて座っている祖母。足をぷらぷらと投げ出し、意気揚々と宿題の音読を披露する小学生の真澄がそこにいた。 「そして市松はこう答えたのです。オラはやってねぇだ。どんぐりが勝手に動き回って家じゅうとっ散らかして行ったんだ。しかし村の衆は信じるはずもありません。市松はとうとう村の嘘つき者にされてしまいました。 今日はここまでだよ」  隣で真澄の音読を聞いていた祖母は、顔のしわを更にくしゃりとさせて笑顔を見せた。 「まーくんはほんに上手に読むなぁ。おばあちゃん、まーくんの音読聞くんが楽しいわぁ」  真澄も、にいっと満足げに笑顔を向ける。 「おばあちゃん、僕の音読また聞いてね!」 「あぁ、聞いちゃる聞いちゃる。なんぼでも聞くけぇまた来んさい」  小さい頃、お盆やお正月によく遊びに行っていた母親の実家。いつも優しく迎えてくれたのは腰が曲がった小柄な祖母だった。祖母の家は子供が駆け回るには十分な広さがあった。そんな広い家の中でじっとしている方が難しい。それゆえ、母親にじっとしていなさいとよく𠮟られた記憶がある。けれど祖母は「元気なんが一番ええ」と言っていつも笑ってくれた。  祖母の家で一番の楽しみだったのが音読だった。隣で本を読み上げると、祖母はいつも褒めてくれる。 「まーくんは綺麗な声しちょるねぇ」  ある時、祖母はそう言った。 「声?」 「そげ。まーくんの声はなぁ、水のせせらぎみたいに綺麗で澄んだ声しちょる。こげにいい声しちょる子は他におらんけぇ、きっと神さんがまーくんの為だけにごしなっただわ」  きっかけは祖母に聞いてもらった音読だったと思う。もともと本を読むことは好きで、読み聞かせて誰かを楽しませたり、喜ばせることができたらそれは自分にとって最高に嬉しいことだった。祖母が綺麗だと言ってくれたこの声で、もっと沢山の人に心を動かすような感動を与えたい。そう思って、学校の朗読劇やボランティアの朗読会に参加したりと、積極的に人前に立って朗読を披露していた。  中学生になると、さらに朗読を披露する機会は増えた。先生の推薦で参加した全国の朗読発表会。それは全国の学生が一堂に集まり、朗読で競い合う大きな大会だった。緊張もあったが、それ以上にワクワクした気持ちが大きかったのを覚えている。声を乗せて沢山の人に言葉を届ける。自分にとってそれが何よりも喜びに満ちた瞬間だった。  それなのに、たった一言で全てが変わった。 「女みてぇな声」  第一部の発表を終え、控え室へ向かう廊下でその声は聞こえた。 「あぁ、あの名御(なご)中の奴な。俺思わず吹き出したわ。見た目男だし学ラン着てんのに、女声とかキモ過ぎだろ」 「名前なんつったけ、えーと……そう、本田。本田真澄(ほんだますみ)」 「はっ、名前も女みたいじゃん。マジで性別どっちだっつの」  視界がぐにゃりと歪んだ。息ができない。まるで喉の奥を、何重にもくくられた縄で締め付けられているようだった。たった一言、彼らの他愛無いその言葉が、真澄の心を深く抉り取った。  第二部の発表はそれはもう悲惨だった。壇上に立った途端、声が出なくなったのだ。あんなに楽しく読んでいたのに、読みたかったはずなのに。震えが止まらない。力が入らない。額に汗が滲む。呼吸は段々と上擦り、一斉に向けられたその視線は恐怖に変わった。  そして呼吸の仕方を忘れると、その場で倒れ、意識を失った。
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