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ろろろま探訪
父が亡くなった。酒、煙草、高血圧、糖尿。日頃の不摂生が祟ったとはいえ、定年を目前として未練だったであろう。
一人息子である僕が社会に羽ばたく姿を見せることも叶わなかった。大学の四年に至るまでに三度の浪人さえ無ければと悔いる気持ちもあったが、今の僕を支配する感情はそれではなかった。
「ろ、ろ、ろ、ま。ろろ、ろま。ロロロマ? ロマン? ノロマ?」
僕が病室で父を看取った時、父が最後に発した言葉。
『ろ、ろ……ろ……ま』
僕の頭はそのよくわからない言葉で埋め尽くされていた。ろろろま。ろ、ろろま。ろろろ、ま。どこで区切る言葉かもわからない。舌の動きが気持ちいい、少し間抜けな響き。そもそも一つの単語ではないかもしれない。そもそも意味のある言葉ではないのではないかもしれない。辞書で引いてもインターネットで検索しても、ピンとくる言葉はどこにもない。
それなのに、僕はこの言葉を知っているはずだと確信してやまない。いや、かつて知っていたはずなのだ。僕の脳のどこかにこの言葉は刻まれているはずなのだ。しかし何処を探しても見つからない。そんな気持ち悪さが頭から首へ、首から全身へと広がっている。
「小さいころ、誰かから聞いた言葉か」
誰か? そりゃあ父なのだろう。父が発した言葉なのだから、僕は昔に父から聞いたのであろう。ではその言葉の意味は。
「それでわかれば苦労はしていない」
しかし父由来の言葉だろうという推測は進歩である。僕は亡き父の部屋を訪ねた。卒論も就活も放り出して、言葉の意味を探しに実家へ舞い戻ったのである。
「ろ、ろ、ろ、ま。ろろろま。ロロロマ。ROROROMA」
呟くように、歌うように、壊れたラジオのように言葉を繰り返しながら、僕は父の部屋の扉を開く。じめっとした空気が流れ、薄暗かった。父は入院が長かったため殆ど帰って来れなかったのだろう。
壁一面には本棚、ポツンと文机が一つ。幼い頃を思い返せば、父はいつも部屋で本を読んでいた印象しかない。父と遊んでもらった記憶などほとんど──ない。ないはずだ。ないはずなのだが、家で誰かと遊んだような。母ではない。兄弟もいない。友人でもなかったはずだ。誰だ? しかし、うまく遊べなかったような感触もある。
眉間を強く押さえながら文机の席につく。記憶力や思い出など当てにならぬものだと僕は肩を竦めた。
薄く埃を纏った机上は父がこの世からもういないことを示しているようで、目頭に少しの熱を覚えた。
引き出しに目を向けると、違和感かある。数個ある引き出しのうち、一つだけが妙に綺麗だ。あまり埃を被っていない。生前よく利用していたのだろうか。僕は何の気無しにそこを開いてみた。
「ノート。昔の日記……かな」
そこには数冊の黄色く色褪せたノートが置かれていた。ページを捲れば日に焼けてぱりぱりと音を立てる。相当に古い。父が子どもの頃のものであろうか。
「ろ、ろ、ろま……ろろろま!?」
一冊のノート。表紙に書かれた文字は『ろろろま』。僕は興奮が抑えられなくなっていた。息荒く、手は震え、鼓動がうるさい。渇いた口内とは対照的に汗ばんできたその指で、ページを捲る。
「ろろろま……子どもと遊ぶ妖怪。妖怪?」
ノートの筆跡はおおよそ子どもの字。父が書いたのだろう。ノートには『ろろろま』に関する記述が延々と書かれているようだった。
「聞いたことがない。父さんが空想した妖怪……?」
『あんた、惣一郎かい?』
部屋に何者かの声が響く。どこか幼く、どこか無邪気な。僕がノートから顔を上げると、机の角の景色が揺れる。陽炎のように揺らめいている。だが、その姿は見えない。
『惣一郎、またおいらが見えるようになったのかい?』
「僕は惣一郎ではない、惣二郎だ。惣一郎は僕の父だ」
『惣二郎……? 惣二郎もおいらは知ってるぞ。昔、ちょっとだけ遊んだことがあったな』
「姿が見えない。君は誰だ?」
『そうか……やっぱり見えてないのか』
声の主はわかりやすく落胆した声色になる。僕は尋ねた。
「もしかして、ろろろま、なのか」
『そうだ。おいらはろろろま。思い出したのか?』
──ろろろま。幼い頃に父から話を聞いた妖怪だ。独りぼっちで遊んでいる子どもの所に現れて、一緒に遊んでくれるとても優しい妖怪だと父は話した。自身も小さい頃にはよく遊んでもらっていた、と。
僕は当時、ろろろまを信じることがどうしてもできないでいた。百科事典や妖怪辞典を引いても出てこなかったし、情報源が父だけでは信用が足りなかったのである。それでもちょっぴり存在を期待した結果、存在が不確かな何かと遊んだ記憶だけが残っていた。
「君の姿は僕には見えない。昔も、今も」
『そりゃあ惣二郎がおいらの存在を信じきれていないからだ。昔も、今も』
姿は見えない。モヤがかかったように、屈折したように、何かがそこにあるという事実だけしか僕には認識できないでいた。
「イマジナリーフレンド」
僕は呟いた。
「君は、父のイマジナリーフレンドみたいなものか」
『言い得て妙だな。おいらは惣一郎の想像だ。惣一郎は独りで遊ぶのが淋しくて友達を空想していた。それに細かな設定や名前を、おいらにキャラクターを付けたんだ。そして惣二郎に口頭で伝承した』
僕は妖怪とは信仰の存在であると聞いたことがあった。人が信じて、噂をすることで産まれる存在だと。
『惣一郎、いないのか?』
「父は死んだ」
『……そっか』
先ほどよりもわかる。落胆した声。震え、今にも泣きそうに聞こえる。
『じゃあ、おいらはきっと完全に消えるんだろうな』
ろろろまを信じ、存在を認識できる人間がいなくなったのだ。ろろろまを信じる人がいなくなれば、存在の意義がなくなり、消えてしまう。
『──もっと子どもと遊びたかったな』
ほんのささやかな願いを最後に、多分、ろろろまは父の部屋からいなくなった。見えないけど、多分、消えてしまった。
視界の揺らめきも既に無い。しかし、ろろろまが机に座っていた後だけは、埃の上には確かに残っていた。
──
「お兄さん。何をしているの?」
「絵を描いているんだ」
「公園の地面に?」
「そうさ。ところで──」
「ろろろま、って知ってるかい?」
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