バケモノは夜を重ね、蝶と戯れる

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思考の海に沈んでいたが、聞こえて来たコンコンという控え目なノックの音にハッとする。 私の唯一の使用人が来たらしい。 無表情で彼は「おはようございます。これから私が旦那様のお世話をいたします。よろしくお願いします」とだけ言った。 彼の顔を見てひゅっと喉が鳴った。 何の感情も乗せない瞳と平坦な声音。私が想いを寄せていたただひとりの人が別人のような顔をして再び目の前に現れたのだ。 その表情からは一切の関心も感情も感じられない。 長年抱き続けていた彼への想いは私の完全な一方通行だったのだと分かり、私の心はチリチリと燻ぶる火種に焼かれているようだった。 彼との二人だけの生活は本宅に居た頃よりもっとずっと私を惨めにさせた。 彼の仕事ぶりは完璧すぎて、まるで機械の相手をしているように思えたのだ。彼が完璧であればある程、私の心を冷たく凍てつかせる。 彼もヤツらと同じように私を私として見てはくれないのか。 失敗しても何でも彼にはあの頃のように笑っていて欲しかった。 私を私として見て欲しかった――――。 彼との再会に僅かに抱いていた期待が萎んでいく。 目の前に居るというのになんて遠い彼との距離。 今どこに居て何をしているのかと案じていた頃の方がよほど幸せだった。 そしてある朝彼は寝衣の上からでも分かる私のアレの変化を見て言った。 「旦那様、――夜のお相手をご用意したします」 彼の言葉にカッと頬が朱に染まる。 そんな事にまで気を遣って――だけどそんなのちっとも嬉しくなんかない。 ――夜の相手だなんて……。一体誰を連れてくると言うのだ。 たとえ彼の方に私に対して関心がなくとも彼以外の誰にも触れさせたくはないのに――。 本当に嫌になるほど彼は真面目で、有能で――残酷だ。 そうして夜がきて、控え目なノックの後私の部屋を訪れたのは蝶の仮面をつけた若い男だった。 灯を落とした部屋に差す月明りにうっすらと浮かぶ男の姿は、素顔は仮面に隠されているものの彼の美しさを隠しきれるものではなく、しばらく言葉を失い見入ってしまった程だ。 絹のような黒いサラサラの髪と肌の透けて見える夜着を細い身体に纏っていた。 彼はおずおずと近寄り私の身体に触れた。 他人に意味を持つ触れ方をされ、ぴくりと身体が震えた。 彼に触れられた所がひどく熱い。だけど――。 「――気持ち悪くは……ないのか……?」 訊かずにはいられない。 誰もが目を背けるこの身体。仕事として私に抱かれるというのならあまりにも――惨めだ。 しかし彼は私の手を取り自分の頬に触らせるとふるふると頭を左右に振った。 そして私の顔を見つめた。 はっきりと浮かぶ彼の姿。頬を染め瞳は私の事を愛おしいとでも言うようにゆらゆらと揺れていた。これが演技のはずがなかった。する必要がない。なぜなら彼は私の目がこれほど見えているとは思っていないのだから。 私は満足に動く事ができないと思われていたから主導権は彼が握っていた。彼は自らの身体を開き、私の熱を解放した。夢中で彼との時間を過ごしいつの間にか眠ってしまっていて、朝目を覚ますと彼の姿はなかった。冷たくなっているシーツに触れて寂しくなる。 昨夜の彼との事は夢の中にいるみたいに幸せだった。が、実は本当に夢だったのではないかと不安にもなった。ぼんやりとそんな事を考えているとドアの外に気配を感じた。 控え目なノックの後、執事服に身を包み現れた彼。 「おはようございます」 いつも通りの無表情にいつも通りの朝の支度。 だけど少しだけいつもと違う身体を庇うような仕草。 やはりあれは夢ではなかった。 彼はなぜこれほどまでに自分の心を隠すのか。 「――――」 思わず訊ねようと口を開きかけて止める。 訊いてしまえば私たちのこの甘やかな関係が壊れてしまうと思ったからだ。 夜の彼が身に着ける仮面の蝶のように、どこかへひらひらと逃げて行ってしまう。あの時私の元から去ってしまったように。 彼の行動の意味は分からない。私の方も彼に本当の事を言えていないのだし、昼間の彼がどんな風に振舞おうがもう気にするのをやめようと思う。 私は彼を愛していて彼もまた私を愛しているのだと蝶が教えてくれたから。 彼の甘く魅惑的な味を知ってしまった今、もう手放す事などできようはずもない。 この大きな虫籠の中で、私というバケモノと美しい()だけがいくつかの嘘と共にいつまでも戯れ続ける。 -おわり-
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