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「そういえば、健治君は得意札はもう決めた?」
得意札とは、これだけは絶対に取らせないと決めている札のことだ。
「う、うん。一個だけ」
「へぇ、どれにしたの?」
僕は小さく深呼吸をすると、頼りない記憶と照らし合わせ、少しぎこちなくその句を諳んじた。
「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」
意味は、筑波山から流れ落ちる男女川の深い淵、秘めた私の恋心も積もり積もって、その淵のように深くなってしまった、というもの。自分の充君への言い出せない思いに重ね合わせて、なんだか気に入っている。それにこれは……。
「僕と同じなんだね」
充君には珍しく、驚いたように目を丸くしてそう言った。ぽかんと小さく口を開けるその顔も可愛いと思うのは、やはり恋の色眼鏡だろうか。
そう、これは充君の得意札の一つなのだ。決して偶然なんかじゃない。パシッという乾いた音一緒に、この札が取れた時の充君の輝いた表情が好きだ。その光景が目に焼き付いて離れない。真剣な表情から一転、自分のモノにしたという満足感からか晴れやかな笑みを浮かべた充君が。それを何度も見ているうちに、自然と覚えてしまったのだ。
充君のことを考えていたせいで、頬が少し熱くなってきた。僕はクールダウンの意味を込めて、手元のカルピスを流し込んだ。すると爽やかな甘さが口いっぱいに広がり、パチパチと炭酸が舌の上で弾ける。
「僕もその歌好きだよ。でも最近ね、もう一首、得意札にしたい歌ができたんだ」
「そうなの? どれどれ?」
今この場で聞いてみたって分かるかどうかは怪しいけど、それでも知りたいのだ。
「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに」
聞いたことがあるような、無いような。意味など分かりはしないので、あとで調べるときに忘れないようにと僕は小さく口の中でみちのく、みちのく、と繰り返した。そんな傍ら、どんな心境の変化だろうと思いを馳せる。
得意札はやはり、自分の思い入れや好みがよく出るものだろう。それが新しく得意札にしたということは、何らかの出来事があったのかもしれない。その札に思い入れができるような何かが。百人一首は恋の歌も多く、もしかしたら誰かを想う自分に重ねているのかもしれない。僕自身のように。
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