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「そういえば、健治君は得意札はもう決めた?」
話題が八月に行われる全国大会の話になったので、その流れで得意札のことを聞いてみる。健治君はまだすべての歌を覚えきれていないだろうが、気に入った一首くらいあるだろう。話の一つとして聞いてみたのだけれど、健治君は頬を染めてはにかんだようにして得意札を教えてくれた。
「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」
それを聞いた瞬間ドキドキと痛いくらいに心臓が鼓動して、熱い血液が体中を駆け巡った。きっとポカンとした間抜けな顔を晒してしまっただろう。それが少し情けなくて悔しい。
僕と同じ得意札を選ぶ。しかも一番好きな得意札だ。誰かの真似をするなんて子供じみていると鼻に皺を寄せてもいいはずなのに、その行為がたまらなく可愛いと思ってしまう。先に惚れたのは健治君のはずなのに、どうして自分がこう悶々とさせられるのか。だから僕は少し、意地悪を言いたくなったのだ。
「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに」
信夫の里でできる摺衣の乱れ模様のように、私の心はだれでもないあなたのせいで乱れ始めてしまいました。
「これはね、恋の歌なんだよ」
無邪気な君の言動に乱される、僕の心を映したような歌じゃないか。この歌の意味を知ったとき、健治君はどんな反応を示すのだろうか。その表情を見たくて、僕は健治君の正面に回る。そして目を細めて、悪戯っぽく聞いてみた。
「なんでこれを好きになったか、教えてあげようか?」
余裕そうな顔とは裏腹に、どこか興奮で息が上がりそうになる自分がいる。そして瞳の奥を光らせながら、健治君の上気した顔が小さく頷くのを眺めていた。そのどこか心許なさそうに自分を見つめる健治君の眼差しに、なぜか自分と健治君の未来を想像してみる。
普通に高校大学と進学して、普通に二人で生活する。冷蔵庫にあるカルピスの隣にはブラックコーヒーのボトルが並ぶのだ。そうしてそれぞれが好きなものを飲んで、好きなものを飲む相手を眺める。そんなのも悪くはない。相手に強要したり、変に合わせようとしなくてもいいのだ。
「健治君の大好きって気持ちにドキドキしちゃう僕の気持ちにそっくりだから」
大きく大きく見開かれた健治君の顔を見て、やはり子供っぽくて可愛いと思う。そう考えていると、無意識のうちに両手がその顔を包み込んでいた。そうして逃げられないように、しっかりと捕まえる。
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