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その日から俺は学校からの帰り道を変え、その路地には一切近づくことをしなくなった。
街を歩いていて、女の子が『お兄ちゃん』と誰かを呼んでいるのを聞くと背筋が凍る。
何年も何年も、人知れずその現象に悩まされていた。
だが、大人になってしまえば、自然と当時の恐怖は薄れていくものだ。
それでもふと思い返して、震えが止まらない夜がある。
化け物が怖いわけでは無い。
不思議で恐ろしい体験だったと怖がりはするが、俺は幽霊や化け物なんて、そんな非科学的なものが存在する訳がないと考えている。
だから、今は別の恐怖に襲われているのだ。
もし、あの子が本当に、実在した女の子だとしたら?
虐待されていたか、もしくはいじめられて、仕方なくあの場所にいたとしたら?
あの日俺が見た不気味な目や口は、恐怖や暑さから来る幻覚で、本当にあの子は足が何かに引っかかって動けずにいたとしたら?
本気で俺に助けを求めていたのだとしたら?
俺は、絶望の中にいる孤独で無力な女の子を、あの熱気に包まれた暗がりに置き去りにしてしまったことになるのだ。
そのまま、命を落としていて、今もまだ誰にも見つかっていなかったとしたら……。
そう思うと、怖くてあの路地には近づけない。
もし俺が考えていることが事実だったらと考えると、まだあの子が化け物であった方がましだ。
そんなことを、路地を見る度に思う。
この街はビルだらけだ。
隙間道で溢れている。
俺はため息を吐いて、駅までの道を歩いていく。
夕日がゆっくりと落ちていき、街頭に明かりが灯り、空の黒さを強調する。
人気のない路地裏。
人混み独特の雑音と、甲高いクラクションの音が、はるか遠くから聞こえてくる。
ざりっ……
何かを踏んづけた。
ざわざわと全身の毛が逆立つのを感じて、視線を足元に落とす。
そこには、土ぼこりにまみれた長い長い髪の毛が、道を横断するように敷かれていた。
その黒い髪の毛は、真っ暗なビルとビルの隙間の闇から伸びてきていた。
「お兄ちゃん」
女の人が、俺を呼んだ気がした。
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