死期渡し

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「どうかな。信じるのとは少し違う感覚かも。なんとなく、いてほしいような、そんな感じ」 「どうして?」 「だって、もし本当にいるんだったら、僕もいつか、幽霊になってこの世界に戻って来られるかもしれないってことじゃない?」  ――和葉は息を呑んだ。  それから、自らの軽率さを心の内で悔やんだ。 「縁起でもないこと、言わないで」 「あっ……」  夏樹は声を詰まらせ、「ごめん、そんなつもりじゃ、なくて」  和葉はなにも言わずに目を逸らした。  互いの間に確かな沈黙が横たわると、夏樹がそれを嫌うように「ねえ」と声を上げ、 「大会は、出てくれるか決めた?」  ぎこちのない話題のすり替えだったが、和葉は咎めなかった。「いえ、まだ、ちょっと」 「呑気にしてると締め切られるんじゃないかな?」 「大丈夫よ。まだ四月になったばかりだし、締め切りは確か五月の終わり頃だったから」 「でも、早いに越したことないよ。それとも、やっぱり迷ってる?」  純朴な両目に、悲しげな色が宿る。  ――ええ、迷っている。  しかし和葉は、素直には頷けず、 「まあ、そのうちね。最近は入学の手続きとか引っ越しとかで、色々と忙しかったから」 「そっか。八坂さんももう、大学生なんだよね。いいな、楽しそうで」  パッと、夏樹の表情が明るくなる。物憂げな気配が失われたことに和葉は安堵する。  その直後だった――「……ッ!」  夏樹が途端に背を丸くし、辛そうに顔を歪ませた。  和葉は青ざめ、とっさにナースコールを押そうとする。しかしすぐに震える細い指先に止められ、 「平気だから。少し、苦しくなっただけ」  夏樹は呼吸を整えながら、ゆっくりと姿勢を直していく。「ずっと横になってるばかりだったから、疲れたのかもしれない」 「本当に大丈夫なの? 看護師さんを呼んだ方が……」 「おかしいよね、今日は八坂さんが来てくれて、元気な日のはずだったのに」  微笑みで取り繕いながらも、夏樹の眼差しはどこか虚ろだった。  和葉はなにも返せなかった。慎重な手つきで夏樹の華奢な体をベッドに寝かせることしかできなかった。 「なんだか、介護みたいだよね。そのうち、僕の体のことでも、僕以外の人の方が上手くできるようになっちゃうのかな」 「なにを言ってるのよ……」 「それか、マリオネットみたいな。その方が僕も楽なのかもしれない」 「怖いこと言わないで。大体、あなたの病気はそういうのではないでしょう? 弱っても、体は自由に動かせるんだから」 「動かせたって、ずっと病院の中じゃ、いいことないけどね」  寂しそうに微笑む顔が、和葉の胸をざわつかせた。 「最近、よく昔の夢を見るんだ。前の病院の、あの樹の下で、八坂さんと話してたこととか」 「昔って言うほどじゃないわ。まだ一年も経ってない」 「ううん、昔だよ。だって夢で見るくらいだから」 「どういう意味?」 「子供の頃、お祖父ちゃんが言っていたんだ。人間、歳を取ると、昔のことを何度も夢に見るようになるって」 「それはお年寄りだからでしょう? 十七歳が気にすることじゃないわ」 「うん……十七歳。だからもうすぐ、十八歳だよね、僕」  特別なことのように、夏樹は言った。「ねえ、八坂さん」 「なに?」 「約束はまだ、約束のままだよね」  和葉はぎゅっと、唇を噛んだ。  そんなためらいは、見せるべきではなかったのかもしれない。  けれど和葉には、安易に即答する方が嘘らしく思われる気がした――いずれにせよ夏樹が悲しむように仕組まれていることなど、知る由もなく。 「当たり前でしょう? まだ果たせていない約束なんだから」 「……本当に、優しいんだね。八坂さんは」  夏樹がふっと目を逸らす。視線の先は窓の外だった。  和葉も彼の視線を追った。ベランダにシキの姿はなかった。  ――しばらくして、夏樹は穏やかな寝息を立て始める。疲れさせてしまっただろうか、と和葉は思った。  しかし今日ばかりは、彼が眠ってしまったことは都合がよかった。 「その男、眠りに就いたのか」  リンと、鈴の音。波紋のように広がる。  いつの間にか、シキがベッドの近くまで戻ってきていた。「で、そなたはまだ帰らぬのか?」 「頼みがあるの」  和葉はぎゅっと拳を固めて、「前に言ってたわよね? あなたを媒介にすれば、見ることができるって」 「ああ、――その男の、死期のことか」  少女の細い喉から鳴ったとは思えない深い笑みが、くつくつと響く。  それからゆっくりと、シキは閉じていた左目を開いた。  か黒い右目とはまったく違う、銀無垢の光を湛えた瞳が、色彩に乏しい病室の中で鋭い輝きを放つ。  あの時と同じ目だ……和葉は息を呑んだ。 「では、余と同じようにするのだ」  眠りに落ちた夏樹の手に、シキの小さな手が置かれる。言われた通り、和葉もそっと右手を載せる。シキの肉体には触れないため、和葉の手はシキの手をすり抜け、夏樹の温もりが直に伝わってくる。 「これで用意は整った。あとはそなたが念ずるだけだ」 「念ずる……?」
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