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1.
「人生とは糞ゲーなり、と……」
そんな私の小声は、折からのビル風に乗って消えた。ぶらぶらと屋上の転落防止フェンスの隙間から足を突き出して揺らす。人に見つかれば危ないぞ、何をしていると叱られる場面だが、ここ、校舎の屋上は校庭からは死角となるのでその心配もない。通学カバンから大ぶりの裁ちばさみを取り出し自分の首筋にあてる。後はこれを勢いよく引き抜けばこの糞ゲーからもおさらばできる。そう頭では理解しているのに手は一向に動いてくれなくて。
「ああ、やっぱりなあ」
私のつぶやきがゆらりと消える。こんな糞みたいな人生でもやっぱり死ぬのは怖いから。もう、自分というのを知覚できないなんて。前に手首を切った時に感じたあの感じ。血とともに自分というものが流れ出していく、あの感覚をもう一度味わうのは嫌だった。それに痛いのも嫌いだ。親を思い出すから。
ズキズキと昨日さんざん殴られた腹部が痛む。昨日は何で殴られたんだっけ?挨拶しなかったから?違う、それはこの前。帰りがちょっと遅かったから?違う、それはその前。ああ、思い出した。私は苦笑する。父親が私の下がった成績について、憤怒で絶叫しながら部屋に乗り込んできたから、思わずうるさいなあと毒づいてしまったからだ。
いやまあ、毒づいたことは正直失敗だったと思っている。でも言い訳させてもらうのなら、実際あまりにもうるさかったのだ。この気違い、クズ、誰のおかげで学校に通えていると思っている、お前は本当に頭が悪いななどなどなどそうした罵詈雑言を耳をつんざく大音量で垂れ流すのだ。小声で毒づくぐらい許されそうなものではないか。どうせ聞こえないだろうし。そう思って毒づいたのが運の尽きだった。憤怒で顔を赤らめさせていた父親は真顔になると私の鳩尾に膝蹴りを叩き込み、蹲った私を投げ飛ばすと馬乗りになったのだ。
あとは乱打乱打乱打の嵐。このクズ、誰に向かって。その二言をひたすら繰り返していたことを覚えている。何発殴られたかは覚えていない。70を超えたあたりから数えるのが馬鹿らしくなって数えるのをやめてしまった。最初は私も抵抗していたけれど、下手に抵抗するより黙って殴られていた方が痛くないことに気づいてからは黙って殴られることにした。私は馬乗りになって殴られるときは、完全に脱力してしまった方が、打撃の勢いが抜け痛くないことを学んだ。心を殺し、ただただ受け身になればさほど辛くはない。殴られるたびに反動で私のぐったり伸ばした手足が跳ねるのを他人事のように眺めていたのをよく覚えている。
あれは痛かったなあ。そう思って苦笑する。久々に殺されるかと思ったほどだ。本当はしかるべき機関に通報するのが正解なのだろう。頭ではそうわかっているのに、私はそうするつもりはなかった。仮に通報したとして、私のその後の人生はどうなる。施設送りになるのが関の山だ。大学進学という私の夢は絶たれることになる。妹だってこれから高校だというのに妹の学費はだれが払うのだ。それに通報がうまくいく可能性だってわからない。通報が失敗すれば今度こそ私は殺される。一族の恥だとか言って。
それにあんなでも私の親なのだ。昔に比べれば暴力の頻度は減った。暴言も一番酷かったころよりはおとなしくなっている。だから私は夢見てしまうのだ。かつて私が幼かったころの、優しかったころの両親に戻ってくれる日のことを。まだ私たちはやり直せるはずだと、そう信じて。
その点、教頭先生に昨日の傷跡を見られてしまったのは失敗したなあと思う。私のお腹についた、無数の青あざ。それを見つけた先生に問い詰められて喋ってしまった。父親に殴られましたと。70発以上も。母はあざ笑って見ているだけで助けてくれませんでした、と。割と精神的に参っていたのもあるのかもしれない。要らないことまでしゃべってしまった。
血相を変えた先生に問い詰められた。週にどれぐらい殴られるんだ。ほぼ毎日です。どれぐらいの強さで。力いっぱい。母親は何をしている。殴りはしませんが酷いことを言ってきます。
先生は頷いていった。児童相談所に通報する。君はもう家に帰るな。私の家に来い。大学進学までは面倒を見てやる。やめてくださいと私は叫んだ。家族がバラバラになってしまう。そして私は殺される。一族の名に泥をぬったとして痛めつけられてから殺される。昨日なんて目じゃないぐらい、今度こそ悪意を持って痛めつけられる。胸の内に冷たい水が入ってきたような感覚。とてつもない恐怖。歯の音ががちがちと震える。殺されたくない、殺されたくない!そう言った。
そうはさせないための先生たちだ。教頭先生はそう言ってくれた。でも私には信用できなかった。昔、小学校の先生に親について相談した時、先生は何も守ってくれなかったから。だから私は言った。ごめんなさい。信用できません。教頭先生は酷く傷ついた顔をしていた。その顔が見ていられなくて、私は逃げるように屋上まで来た。
2.
どんどんどんどん。屋上へと続くドアが激しくノックされる。
「おい、○○さん!そこにいるんだろう!話をしよう!早まるんじゃない!」
教頭先生の叫び声が聞こえる。きっと私を追ってきたのだ。馬鹿な人。私は内心独り言ちる。生徒は何百人もいるのに、高々そんな一人にそこまで必死になって。でも私は嬉しかった。こんな私の話をここまでしっかり聞いてくれたのは先生が初めてだった。こんな地獄から引っ張り上げようとしてくれたのも、先生が初めてだった。
「先生は、優しいなあ……」
私は呟く。私は嬉しかった。私のためにこんなに必死になってくれる大人がいたなんて。初めて、大人を信じてもいいかもしれないと思った。思わずその手を取りたくなるほどに。
でも駄目なのだ。その手を取れば家族はバラバラになる。妹は施設送りになる。私より何十倍も優秀な妹を施設送りにして、私一人のうのうと生きていくことなんてできなかった。
だから私は死なねばならなかった。私が死ねばこの話はなかったことになる。だから私は転落防止フェンスを乗り越える。
ありがとう先生。私は胸の中で小さくつぶやく。先生のおかげで、この世界は思っていたほど糞ではないということを知れました。この素晴らしくない世界にも、救いはあるのだと知りました。だから、ありがとう先生。
私はその思考を最後にフェンスから手を離す。涙に滲む世界の中で私が最後に見たのは、ドアをこじ開け、必死の形相でこちらに駆け寄って来る先生の姿だった
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