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『夏の夜の夢』
じゅっ、皮膚に染料が注入されるかすかな音が、静かな部屋にぼとりと落ちる。広い背中の歪んだ鱗模様を、僕は慎重に針を動かしながら綺麗な輪郭に戻していた。夜の暗闇の中、抜き刺しされる針の先端からじわりと染料が赤く広がって、瞬時に黒い縁取りの中に満たされる。
じゅっ、背中越しに、あなたの指先に挟まれた煙草の先端に火が点るのが見えた。息を吸い、吐いた音が聞こえて、ゆるゆると紫煙が遠くの窓越しの夜景にたゆたう。少なからず自分の肌が傷つけられているというのに、この人はいつも、悲鳴ひとつ上げない。高揚した様子さえ、見たことない。なのに。
「ほてる」
充満していた苦い匂いが、甘い余韻に変わる。
「愛してる」
こんな一言を、平気で言ってのけるのだ。手元が狂って肉に針が刺さった感触がした。赤が黒の染料に混ざり、また輪郭が歪な形になる。黒と混ざり合った赤は、渇いた血の色に似ていた。
ほてる、鈍りの入った口調で、あなたはいつも僕をそう呼ぶ。暗い中に光を生む、僕の名前。
「……すみません」
「いぃ、続けろ」
じゅっ、もう一度慎重に針を刺して、汚れた色を闇の色で塗り潰す。そして赤がじわりと溢れる。
今が、真夜中でよかった。指先の動きに集中しながら、ふと思う。ほてる。この人にそう呼ばれる度、身体中の血が疼いて熱くなる。あなたにしか呼ばれないその呼び名が、僕はどうしようもなく好きだった。
ふっ、と吐き捨てるような笑い声があなたからこぼれる。視線の先を見つめると、短い煙草の火が小さく揺れて、弄ばれていた。それはまるで、蛍の光みたいだった。
【テーマ:僕の愛したホテル】
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