『二つの小船』

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『二つの小船』

「さえ、ごめんな」  優しい声が私の名前を呼ぶ。その戸惑いを含んだ声に逆らうように、ぷいっと私は顔を背けた。「さえ」そのすがるような響きだけで、見なくてもお父さんがどんな顔をしているのかわかる。眉尻を下げて、口許を控えめに緩ませて、きっと困ったなぁって顔をしているのだ。困らせたいわけじゃない。でも、今回ばかりはすぐにいいよと許せる気持ちではなかった。  一ヶ月前、商店街の福引きでクルーズ船の日帰りペアチケットを私は引き当てた。銀色の玉が出た時は、二人して跳び跳ねて喜んで、ぜったい一緒に行こうねと約束したのに。お父さんは急に仕事の都合で行けなくなってしまった。結局昨日、クルーズ船にはお父さんの妹の彩ちゃんと乗った。はじめての船旅はそれなりに楽しかったけれど、でもやっぱり、心のなかではお父さんと一緒に来たかったなという思いがずっと残っていた。港に着いて船を降りるとお父さんが待っていてくれたけれど、約束を破ったことが許せなくて、ぷいっとそっぽを向いて一言もしゃべってあげなかった。  その時の埋め合わせと言って今日、お父さんは私を公園に連れ出した。「さえの好きなバドミントンしよう」そう言ってラケットとシャトルを手渡される。けれど、昨日の今日で仲良くバドミントンなんてする気になれなくて、全てをほっぽり、私は池のほとりにしゃがみこんでふてくされていた。お父さんが傍であれやこれやとご機嫌を取ろうとする姿を横目で感じながら、あくまで不機嫌な態度をとり続ける。そうすれば少しの間でもお父さんは私だけのことを見ていてくれる。お仕事なんかほっぽって。  けれど、しばらくして声は止んでしまって、途端に不安になる。いたたまれずに振り向くと、お父さんは一枚の葉っぱを持っていた。その葉っぱの両端を内側に折り、器用に四ヶ所切り込みを入れて、そうしてできた輪っかを組み合わせる。しゅるしゅると魔法のように織り成されたそれは、船の形をしていた。私に見せるように手のひらに収め、そしてどんぐりを二つ乗せる。その船を、そっと池の水面に浮かせた。すると、ゆっくりとそれは縁に沿って動き出し、水面を駆けていく。葉っぱの緑色がきれいに水面に浮かび上がって、ぐるりと池を一周する。戻ってきた船を手で止めながら、お父さんは微笑んでつぶやいた。 「お船、こんな感じだった?」 「そんなんじゃないよ! もっと、こーんな大きかったんだから!」  つい手をめいっぱい広げて言い返してしまった後に、はっとする。お父さんはやっぱり、困ったなぁという表情を少し残した顔で笑っていた。気まずくてまた俯いた視線の先に、葉っぱの船が揺れている。きらきらと光る水面を、お父さんの手に支えられながらけなげに浮かんでいる。そのなかに乗った二つのどんぐり。細長ーいどんぐりと、小さく丸っこいどんぐりだった。これはきっと、彩ちゃんと私じゃなくて、お父さんと私だ。 「でもこのお船、好き」  ぽつりとつぶやいた一言に反応するように明るい声で「じゃあ、一緒に作ろうか」とお父さんが言った。振り向くと、にっこりと笑って、私を見てくれている。私はこくりと頷いて、手渡された葉っぱを受け取った。  二つの葉っぱの小船が池の水面をたゆたう。並んで泳ぐその姿は、親子のように仲が良さそうに見えた。一緒に大きな船に乗りたかった。けれど、でも、今はこっちの方がいいや。二つの小船を見守りながら、私たちは顔を見合わせて笑った。 【テーマ:安い船】
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