あなたのその手を

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 エイヴェルの無言の帰還を迎え、その遺体が墓に納められるのを見届けたアズリーは、ヘインシェルドの姓を名乗るようになった。  年頃となり、美しくなった彼女に惹かれて、愛を囁く男も現れたが、アズリーは決して心を動かされはしなかった。 「私はエイヴェルの妻です。一生、彼だけを愛し続けます」  頑なに主張し続け、左薬指からオニキスの指輪を外す事は無かった。  そんなアズリーの強固な意志に、男達は折れ、やがて彼女に求婚する者はいなくなった。  弟家族に養ってもらいつつ、愛しい人の墓のそばに建てた小屋の窓際で、針を動かした刺繍で小銭を稼ぐ生活。 『沢山の子供に囲まれて、明るい家庭を作ろう』  エイヴェルの夢は叶わず、アズリーは一人だったが、村人達はよくしてくれたので、不自由を感じる事は無かった。  だが、弟一家が訪ねてきて、甥姪達がはしゃぎ回るのを見るにつけ、胸の奥に仕舞い込んだはずの悲しみが、刃になってじくじくと刺してくる感覚を覚えた。  それから数十年。  アズリーは老婆になり、病で伏して、いよいよ天からの迎えを待つだけになったその時、蜂蜜色の髪の天使が現れたのである。  彼女が彼を天使だと思ったのは、背中に生える立派な白い翼と、神々しい光をまとって現れた事からだった。  さらにアズリーを驚かせたのは、彼の容貌。気の遠くなるような時間が流れても、記憶から薄れる事の無かった、愛しい人と、瓜二つだったのだ。 「……エイヴェル?」  そんなはずは無い、他人の空似だ、と思いつつも、やせ細った腕を伸ばす。枯れ木のようになってしまった左手の薬指には、黒い石を抱いた指輪が光る。  それを見た天使は、石と同じ色の瞳を瞬かせ、嬉しそうに微笑んだ。 「ずっと、つけていてくれたんだね。ありがとう」  アズリーの心臓が、止まってしまうのではないかというほどに跳ねた。  まさか、と驚きつつも、やはり、という安堵も湧いて出る。 「おれは魔王に倒された後、天の神に功績を認められ、神のしもべとなった。そして、いつか君が天寿をまっとうする時に、迎えにゆくと、決めていたんだ」  アズリーの乾いた頬を、とめどない涙が濡らしてゆく。遠い日々の思い出が、泉が湧くように溢れ出し、脳裏を埋め尽くす。 「アズリー」  エイヴェルが、子供の頃のように優しく微笑んで、右手を差し出す。帰ってきた時に握れなかった、指輪をはめてくれなかった右手を。 「もう、君を一人にはしない。これからは、ずっと一緒だよ」  泣きながらうなずくアズリーの顔が、みるみる内に若返ってゆく。髪は茶色くなり、枯れ果てた手足が艶を取り戻し。もうろくに動かなかった身体が嘘のように、身軽にベッドから飛び出して。  恋人達は、幸せな時を過ごした遠き日の姿で、あかい夕陽の下でそうしたように、しっかりと手を握り合った。  翌朝、アズリーの弟の長男が、娘を連れて彼女の家を訪ねた。 「アズリー。アズリーばあば?」  幼い娘が呼びかけても、ベッドの上の老婆からは返事が無い。  アズリーの甥はベッドに近づき、伯母の口元に手を当て、胸に耳を近づけて、深い溜息をついた。 「パパ。ばあば、どうして起きないの?」  無邪気に問いかける娘に、父親は答える。 「ばあばはね、天国からお迎えが来て、旅立ってしまったんだよ」 「ふうん」  わかっているのかいないのか、娘は真ん丸い目をきょとんとさせて、ちいさくうなずく。  父娘(おやこ)が見下ろすアズリーの顔は、今にも目を開けて起きてきそうなほどに、晴れやかな笑みをひらめかせているのであった。
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