あなたのその手を

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「アズリー・ヘインシェルドさん。お迎えにまいりました」  アズリーの枕元に現れた天使は、優雅に胸に手を当ててお辞儀をしながら、そう告げた。  アズリーは所謂(いわゆる)未亡人である。それも、最近の事ではない。  今では顔も手もしわくちゃになった彼女の肌が瑞々しく、真っ白になった髪も綺麗な栗色だった、まだ恋する乙女と言って良い時分の話だ。  そう。彼女は恋をしていた。  エイヴェル・ヘインシェルド。それが彼女の想い人の名だ。  辺境村に生まれながら、蜂蜜色をしたくるくるの髪に、オニキスの瞳を持つ、優しい面差しの美少年。近親に同じ色を持つ者はいないので、先祖返りだろうと家族は笑っていた。  そんなエイヴェルと一月違いで生まれたアズリー。二人は赤ん坊の時から、それぞれの母親が談笑する横で、同じベッドで眠り、同じ時期に歩き出し、同じ時期に言葉を覚え、走り回って、唯一無二の友人になった。  それが恋心に昇華するのは、狭い村では当然の事だったのかもしれない。 「沢山の子供に囲まれて、明るい家庭を作ろう」  風渡る草原に寝転がり、目映い太陽を見上げながら夢を語る恋人の横顔を見ては、アズリーの胸は高鳴り、一層の好意を募らせた。  だがその頃、世界は暗黒時代にあった。  北の果てで、百年前に倒されたはずの魔物の王が復活を果たし、配下の侵攻をじわりじわりと進めて、アズリー達が住む村がある王国にも、その禍々(まがまが)しい手を伸ばそうとしていたのだ。 「西の小国が魔王に滅ぼされたらしいよ」 「次はいよいよこの国かもしれない」  村人達が、旅商人から得た噂話を、不安そうに囁き交わす。そんな中、エイヴェルの黒い瞳に、ひとつの決意が宿ったのを、アズリーは最も間近で見届けた。  エイヴェルは、草原でアズリーと戯れる時間が極端に減った。そして、ほとんどの時間を、鋼鉄の剣に見立てた木剣を振るう事に費やし始めた。 「おれは魔王を倒すんだ」  草の上に腰を下ろして見守るアズリーの前で、覚悟の炎を目に燃やし、エイヴェルは汗を飛び散らせながら、必死に木剣を振るった。 「先頭に立つ勇者になるなんて、大それた事は言わない。でも、勇者をかばう盾になるくらいの戦力には届くはずだから」  エイヴェルは決して、自分の実力を過大評価しない少年であった。己の分をわきまえ、それに見合う努力を惜しまないだけの謙虚さは持ち合わせていた。そんな実直な彼に、アズリーも惹かれたのだ。 「この手で君を守るよ、アズリー。君の住む世界を、壊されないように」  鍛錬の後、夕暮れのあかい空の下で、恋人達は手を握り合う。  アズリーよりずっと大きくてごつごつしたエイヴェルの手は、熱を帯びていて、彼の心に秘めた情熱を、てのひら越しに伝えてくれるかのようだった。  数ヶ月の後、エイヴェルは革の鎧に身を包み、村長が持っていた鉄の剣を腰に帯びて、村から旅立っていった。 「ああ、馬鹿な子だよ、まったく」  エイヴェルの母親は、遠ざかってゆく息子の背を見送りながら、アズリーの肩を抱き寄せて、嘆きの言葉を洩らした。 「あんたと一緒に滅びの時を大人しく待てばいいのに。あんたを置いて、わざわざ死ににいくなんて」  アズリーは応えなかった。 『君の左薬指に似合う指輪を買って帰ってくるよ』  旅立ちの前日、あかい夕暮れ時にいつも通り手を握りながら、オニキスの瞳にアズリーの驚き顔を映して、エイヴェルは告げ、そっと口づけを落とした。  その約束があれば、彼はきっと自分のもとへ帰ってきてくれる。  エイヴェルのてのひらから伝わった熱を抱き締めるかのように、アズリーは己の左手を、胸に引き寄せた。
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