蜘蛛の託宣

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 物音一つしないどっぷりした夏の終わりだった。隣の工場で作業を終えた熔接工もすっかり捌けてしまう深夜の時間帯に鼻先をしきりに搔き続けていた。  目をあけて数秒後にギャッと悲鳴を発し寝床から転がり落ちた。  闇に浮き彫りとなり輝く顔だけ白い掌サイズのそれは,(こわ)い毛の密生する翡翠色の体から8本の足を折り曲げて人の鼻先を弄んでいた。  蚊よけスプレーを振りかけるが微動だにしない。それでもスプレーの噴射を繰り返すとやはり嫌気がさしたのか,1度身じろぎしてから天井にせりあがり,こちらを見おろしている。再びスプレーをかざすなり目に追えぬ速度で天井を駆け,突如消えた。  蜘蛛は夜な夜な出現し私を悩ませた。手段を尽くし窓外への誘導を試みるが,頑として意を汲まない。次第に凶暴な思案を募らせフォークを投げたり掃除機で吸引しようとするものの何もかも徒労に終わった。そればかりか見るたびに奴は巨大化していく。ついに煙で害虫の諸々を駆除する強力な殺虫剤を焚き染めた。  これで静かに眠れる――  安眠が訪れるはずだった。ところが恐ろしく暑い。あぶら汗が噴き出し,体内の血が煮え滾りながら駆け巡っていく。エアコンの温度を極限までさげ,扇風機もフル回転させた。喉がカラカラだ,氷風呂にでも飛び込みたい! 水分補給のために起きあがる――  土間に幾重にも積み重なる畳の上に白衣を纏い座っていた。頭上近くに薄汚れた天井が押し迫っている。  天井の破損部から三日月を背負う修道院の鐘が見えた――ここは幼少時代に過ごした施設の反省室だ。追従の苦手な子供はとかく攻撃の的になりがちで,トラブルを起こしては反省室という名の牢獄に放り込まれた。  施設長からの懲罰が済んだ後,土間に這い蹲っていると,決まって何処からともなく大きな蜘蛛が現れた。そして鼻先で立ちどまり人をただ見あげていたり,頭や肩に飛び乗って忙しげに行き来したりした。それは傷ついた子供心に自分を慰めるための所作のように感じられたものだった。  すっかり蜘蛛に愛着を覚えた私はゴワゴワした足の1本だけに小指を絡め,大人になったら結婚しようなどと約束した。その翌朝,靄に滲む光の漏れ入る,いつもより早い時間帯に階上から降りてきた施設長は嘲笑しつつ足を高く捻りあげ,蜘蛛を踏み潰してしまった…… 「ロクナモノハゴザイマセヌガ……」巨大蜘蛛が鎮座して,人の目線と同じ高さに揺れる突出した両眼を伏せた。  畳の上まで小蜘蛛たちが行列をなして這いあがり,蟻のぎっしり沈澱分離した飴色の液が溜まるガラス壺や,飛び立とうとするものの色とりどりの鱗粉にまぶされ痙攣するだけの蝶々が山盛りされた椀や,腹からゼンマイ状の管をはみ出しつつも身構える蟷螂の平皿や,無数の油虫が(はね)を毟られ弾け犇めく金属鍋なんぞを恭しく並べ置き異口同音に甲高い声を発した――御婚礼御目出度キコトニテ!  絶叫して畳を飛びおりた。思いのほか高かった――土間に真っ逆さまに落ちて(あばら)でも折るだろうと思った。だが柔らかな感触に包まれて緩やかに舞ってから着地する。  すぐさま違和感に襲われる。  土間は遥か下方にあった――蹠が白い綿に食い込んだ。蜘蛛の糸だ。蜘蛛の巣のなかに絡めとられているのだ。  頭上から影が落ち,巨大蜘蛛が真緑の口をひらく―― 「嫌だ! 蜘蛛なんて真っ平御免だ!」 「クー子ト云ウ名マデ頂戴イタシマシタノニ……」  暗闇がどくどくと押し広がった……  明るくなるのを待ちに待って荒寺に住みついた行者を訪ねた。 「お祓いかぇ? できねぇこともねぇけどさ,しねぇのが得策さね――おめぇさまに憑いてんのは守り神みてぇなもんだ。そうさね,子供ん頃の友達の霊魂だね」そう言って人の額に4本しか指のない冷たい手をあてる。「それよか,まともなお医者にかかりなぁね――おめぇさまの病には現代医学の力で十分さ」  病院へ行って検査するなり猛威を振るう伝染病の陽性反応が出た。数時間発見が遅れると命はなかったらしい。
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