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「ちょっと意地悪だったかな。ごめんごめん」
九条先生は申し訳なさそうに謝り、ホワイトボードから離れ、椅子に座りました。
「ちょっと、ショックです。私が大好きで、勇気を貰えていた体験談が、実は奇跡でも何でも無かったことに……」
泣きそうになる私に九条先生は慌てて言いました。
「いや、僕のあの計算も解釈の一種だから! だから、ちゃんと数学の先生にちゃんと定義を確立してもらってから計算し直してもらえば、実は案外、奇跡だったとなるかもしれない。ただね……」
九条先生はそこで言葉を切り、紅茶を一口飲むと、また話し始めました。
「かつて、幸運のネックレスとか、怪しげな詐欺商品が世に出回ったことがある。今でも、そういう詐欺事件はあるけどね。そういうネックレスを売りつける業者はこんな宣伝文句を言っていたんだ。
『この「幸運のネックレス」は本当に効果があるんです! 既に有名な通販サイト〇〇で20週間連続売り上げ1位を達成しました! 別の口コミサイトの評価も30週間連続で満足度1位を達成中! SNSの「いいね!」の数は何と累計1億! ほぼ国民全員が「いいね!」を押している計算になります! 買えるのは今だけ!』ってね。
そして、実際に一部の芸能人や企業のお偉いさんが手首にネックレスを付けている写真がネットで拡散され、多くの人がその商品を購入してしまったそうだ。中には借金をしてまで購入した人物も居たらしい」
「そんなことが……」
愕然とする私に九条先生は優しく言い聞かせるように話を続けました。
「彼等のような詐欺集団に関わらず、狡猾な人間は何か自分の意見を通したい時に、それらしい数字を用意したり、一部の体験談を大袈裟に取り上げ、『奇跡だ!』なんて言ったりする。それを信じてしまい、翻弄される人間も多いだろう。
だからこそ、曖昧な数字や『奇跡』のような曖昧な評価には懐疑的にならなくてはいけないんだ。そんなのは誤魔化そうと思えば、いくらでも誤魔化せるからね。先程の『国民全員がいいねを押している計算』っていうのも、どこからそんな数字を出した!って言いたくなるよ。
特に我々は学問に携わる人間だからね。出された数字や言葉を鵜呑みにするのではなく、きちんと検証することが大事なんだ。それを君に分かって欲しかった」
九条先生のその言葉を聞いた瞬間、ハッと目が覚めた時のようなスッキリした感覚を感じました。
そうです。私は大学院生です。曖昧な体験談に目を曇らせて鵜呑みにするのではなく、きちんと疑問を持ち、計算してみなくてはなりませんでした。「学問は全て疑うことから始まる」と何かの本で読んだような気がします。
九条先生は私にもう一杯、紅茶を淹れ、そして静かに言いました。
「学問の世界にようこそ」と。
あのブログに悪意があったとは思えません。でも、もし、私があのブログの内容を信じ続けていたら……。「奇跡」という言葉に疑いもせず、キラキラと目を輝かせて生き続けていたら……。
『中には借金をしてまで購入した人物も居たらしい……』
九条先生の言葉が蘇ります。怪しげな詐欺商品に手を出してしまった人は今頃、どうしているのでしょうか? そして、あのままだと私もその人達のように、いずれ騙されていたのでしょうか?
そう考えると、今でもブルブルと震えが止まらなくなります。目の前が真っ暗になってしまいます。だから、私はそのブログの内容をスクショし、研究発表やゼミの前に眺めているのです。自分自身への戒めとして……。
これで私の話は終わりです。ありがとうございました。
――そして、彼女は静かに蝋燭を吹き消した。
(完)
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