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1.鶯屋と納豆
「納豆がねえ・・・」
おかしい。
昨日買い足したばかりの納豆がねえ。奮発して普段より高級なやつ買ったのに。
冷蔵庫に上半身を突っ込んでくまなく探しても、どこにもない。それどころか、一緒に食べようと思っていたキムチまでない。
つーことは、絶対あいつだ。
「おぉぉい!史遠!」
俺は叫んだ。
一瞬静まりかえるが、すぐに、どどどどど、と階段を降りてくる足音がする。
たしーん、と襖が開き、そこには鬼の形相の男が仁王立ちしていた。
長い髪を頭のてっぺんで丸めてまとめている。
白いTシャツと麻の短パン。
「朝っぱらからうるさい!何だよ?!」
「用事があるから呼んだんやろがい!てめえまた俺の納豆とキムチ、捨てやがったな?!」
「だから、臭いもの冷蔵庫に入れとくなっつってんだろ!」
「ああん?何言ってんだ、納豆とキムチはこの世で最も尊い掛け合わせだろうがよ!」
「あんなの人間の食べるものじゃない!」
「あれまだ開けてもねえんだぞ!食べ物無駄にすんじゃねえよ!」
「捨ててない!隣のおばちゃんにやったわ!」
「はああああ?!」
納豆をめぐる終わりのない戦い。こいつはとにかく納豆が嫌い。キムチも嫌い。食べ物の趣味が合わないというのは、人間関係をややこしくすると俺は思う。
「納豆を入れるんなら、ジッ○ロック三重にしてっていつも言ってんだろうが!」
「そっちのほうが無駄使いだわっ!高いんだぞ、あれ!」
「納豆の分回せよ!」
「やだね!俺の金は納豆のためにある!」
「てめえも発酵しろ!!」
史遠はべっ、と舌を出して踵を返し、襖を開けたまま階段をどどどと上がっていく。
「てめえ、このガキ、襖閉めて行きやがれっ」
二階は史遠、一階は俺の生活スペース。築三十年の古民家を改装して暮らす俺たちは、やむなく共同生活を強いられている同居人。
山手線鶯谷駅を出てすぐの、居酒屋とラブホテルがひしめく街。その中でも割と古いホテルが立ち並ぶあたりに建つ古民家は、もともとラブホテルの経営者の家族が住んでいたそうだが、年頃になった娘がこの環境を泣いて嫌がって引っ越しを余儀なくされたらしい。破格で売り出されたのを買い取ったのが知り合いのおっさんで、そのおっさんのツテで破格で借りて住んでいるのが俺。
俺は生活スペースの一角を使って、「鶯屋」なるものを経営している。
業務内容としては、簡単に言うといわゆる何でも屋。と言っても、一昔前のように何日も張り込む浮気調査とか、迷子になったペット探し、みたいな依頼は少ない。
最近はもっぱら、結婚式に友達ということで出てくれだとか、彼氏の振りをして家族に会ってくれだとか、若干寂しい依頼が多い。時代というやつなのかもしれない。
そして二階の住人の史遠。
こいつは俺より一ヶ月遅れてここに入った。
フルネームを上園史遠。初めて逢ったとき、なんだそのキラキラした名前は、と思ったのだが、これが名前に反してなかなかの漢だった。
無駄にさらさらの長い黒髪は腰のあたりまであり、ぱっと見はミュージシャンくずれのようだが、なんと弓の名手で師範ばりの腕前だったりする、古風な男。仕事は・・・しているようだが実はよく知らない。
この家の持ち主のおっさんが、史遠が通っていた弓道の道場主で、親戚だった。その紹介で一緒に住むことになってしまったわけだが。
共同生活に、最初はなんの問題もなかった。
ところがさっきのように言い合いになる背景としては、多分、いや絶対俺が悪くて、「やらかした」というか。
ま、それはおいおい説明するとして。
二階の史遠が馬鹿でかい声で叫んでいる。
「国丸!電話うるさい!出ろよ!」
「わーっとるわ!」
事務所のレトロな黒電話がけたたましく鳴っていた。史遠は携帯しか使わないので、この固定電話は俺の仕事専用。
「お待たせいたしました、鶯屋です」
「・・・東雲国丸さんですか?」
「はい、東雲はわたくしですが」
「お仕事の依頼をお願いしたいと思っておりまして」
「ありがとうございます。何なりとお申し付けください」
「白アリ退治をお願いしたいと思っておりまして」
「・・・・・・どこで、それを?」
「とある筋から」
「・・・・・・」
白アリ退治。
それは本当に白アリを駆除するのではなくて、俺のもうひとつの仕事の合い言葉だった。表向きには決して漏れないようになっている秘密の仕事で、言ってみればこちらが本業。
だいたいは、ある男からのツテで回ってくるのだが、一見さんから電話がかかってくるのは実に珍しく、ある意味危険なのだ。
「・・・詳しくお話を伺いましょう」
「ありがとうございます。では、明日の午後四時、お迎えに参ります」
電話はいきなり切れた。受話器を置いて一呼吸ついたところに、再びどどどと階段を下りる音が。
「おい!階段は静かに降りろって何回言ったらわかるんだよ!」
「あんたが納豆買わなくなったら静かに降りてやるよ!」
「んだとコラぁっ!」
「行ってきまーす!」
「おう、行ってこいや!」
どんなに喧嘩しても挨拶だけはちゃんとね。これ、基本。
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