1 白鳥狩り

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1 白鳥狩り

「皇子・・・よろしいですか」 何度ノックをしても、返答がなかった。ウルリックは重厚な扉を押し開け、そっと中を覗いた。 皇子ジークフリートは十八歳。すでに(きさき)を娶っていてもいい年齢だが、とある事情により婚礼を遅らせていた。しかし彼はあと数日で、とうとう妻となる女性を決めなくてはならない。 ウルリックが部屋に足を踏み入れると、ジークフリートの姿は普段読書に耽るデスクにはなかった。豪華な手縫いレースのカーテンがかけられた出窓から、ジークフリートは庭園を見ていた。 ウルリックは会釈して、背を向けたままのジークフリートに近づいた。 「皇子、失礼します。・・・どうなさったのですか」 「ああ・・・ウルリックか」 「お返事がないので、勝手に入室し、申し訳ございません」 「かまわない」 「考え事ですか」 「・・・そんなところだ」 「ご婚儀のことで?」 「・・・・・・君はどう思う?」 「どう、とは?」 ジークフリートは振り向き、ウルリックを正面から見据えた。憂いを帯びた表情から、控えている婚礼が憂鬱であることが見て取れた。 ジークフリートはゆったりとした口調で言った。 「僕にはわからない。一度も会ったことのない女性を妻に娶る意味が」 「・・・お言葉ですが、皇族の方々のご結婚というのはそういうものでは・・・」 「わかっている。亡き父上と母上もそうだ。だが僕は・・・今の今まで顔も知らない女性に、どうやっても愛情を持てる気がしないんだ。こんなこと、君にしか話せないが」 ジークフリートは自嘲気味に笑った。 二年前、一度決まりかけた結婚は、相手の姫君の急病によって破談となった。それから母である女王は躍起になって皇子の后候補を探したが、ふさわしい姫を見つけることは出来なかった。そしてやっと、ジークフリートが十八になるのと同時に、近隣の国々から選りすぐりの姫たちを后候補として迎え、盛大な婚礼を開く、というところまでこぎつけたのだった。 ジークフリートは言った。 「ウルリック、君は・・・意中の女性は?」 「えっ」 急に矛先を向けられ、ウルリックは戸惑った。その瞬間、ウルリックの脳裏には、結婚を約束した貴族の娘、アネロッテの姿が浮かんだ。 その反応を見たジークフリートは、悲しげに微笑んだ。 「君が羨ましいよ・・・僕は・・・誰かを本気で好きになったことがない」 「皇子・・・」 「初対面の姫君たちに愛想を振りまかなければならないと思うと、本当に気が重い。そして・・・明日の夜には、その中のひとりを選ばなければならない・・・」 ウルリックはジークフリートが高貴な身分ゆえ、簡単に恋も出来ないことを、不憫に思った。 聡明で見目麗しく、片親にも関わらず真っ直ぐに育ったジークフリートは、時期国王となる唯一の皇太子として民にも慕われていた。 「民のためにも受け入れなくてはならないと思っている。ただ・・・どうしても・・・気持ちが上向かないんだ」 ジークフリートはウルリックの脇をすりぬけ、本が積み重なったデスクに両手をついた。 黙りこくってしまったジークフリートに、ウルリックは出来るだけ明るく言った。 「皇子、これから遠乗りはいかがでしょうか」 「・・・これから?」 「ええ。まだ陽も高いですし、先日女王陛下より賜られた弓で、白鳥狩りに参りましょう」 ウルリックは幼い頃から皇子の遊び相手として共に育って来た。ジークフリートにとって、身分は違えど、幼馴染みとして何でも話し合える相手には違いなかった。 「・・・ありがとう。気晴らしになるな」 「すぐに馬を回します。少しお待ちください」 ウルリックは急ぎ足で部屋を出て行った。 ジークフリートは壁に飾られている、つい先日母である女王より十八歳の祝いに賜った弓を手に取った。           ☆ 「皇子、速すぎます、お待ちを!」 「遅いぞウルリック!腕がなまったんじゃないのか?」 ジークフリートの愛馬、エルヴィンはとても毛並みの美しい白馬だった。久しぶりの遠乗りにも関わらず、ジークフリートは彼と湖までの道を止まらずに駆け抜けた。 青く深い湖へは、獣道をゆかなければならない。木々の枝を器用に避け、風を切ると、憂鬱な気分もいくらか晴れた気がした。 湖の周りはたくさんの花が咲いている。エルヴィンを止め、樹に繋ぎ、ここで待つようにと言い聞かせると、弓を持って湖のほとりまで歩いた。 やっと追いついたウルリックは馬を降りて、あわててジークフリートの後を追った。 「皇子!」 「見ろ、ウルリック!白鳥の群だ!」 ジークフリートは夕刻の橙と青が混じり合った空を見上げて言った。ウルリックが顔を上げると、頭上をたくさんの白鳥たちが翼を広げて、湖に向かって飛んでいくところだった。 「皇子、好機です!弓を!」 ウルリックは弓を皇子に手渡した。それを受け取り、ジークフリートは白鳥の群に向かって弓を構えた。 ジークフリートは弓の名手だった。思い切り引き狙いを定めたが、ふと過ぎった思いに手を止めた。 「皇子?」 「・・・・・・いや、やめよう」 「どうなさったんです?」 「なんだろう・・・射る気分になれないんだ」 「・・・・・・・」 「きっとあの群は家族や仲間だ。射られたら・・・悲しむに違いない」 「皇子・・・」 「ほとりで白鳥たちを眺めるだけでいい。行こう」 ジークフリートは弓を降ろし、湖に向かって歩き始めた。 不思議なことが起こったのはその後だった。 急に強い風が吹きぬけ、あたりの木々の葉が激しく舞い、ウルリックのゆく道を塞いだ。しばらくして風がやみ、視界が開けるとジークフリートの後ろ姿が忽然と消えていた。 「お・・・皇子?!皇子!」 風が吹く前と景色は何ひとつ変わっていないのに、ジークフリートの姿だけが消えたのだ。ウルリックは必死になってあたりを探した。叫んでも叫んでも、ジークフリートの返事は帰ってこない。 「皇子、どちらに?!応えてください、皇子!」 ウルリックの声だけが、森の中に響きわたった。
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