2.出会い

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2.出会い

「ウルリック、どこだ、ウルリック!」 強い風が吹き抜け、木々の葉がジークフリートを包み込んだ。ちいさな竜巻のような風がやむと、すぐ後ろを付いてきていたウルリックの姿が消えた。 風が吹いたのはほんの一瞬のことだった。見失ってしまうほどの時間でもなく、湖のほとりに繋がる道は一本道。途中でわき道に逸れることすらありえない。 「どうしたことだ・・・これは・・・」 あたりを見回しても、青々とした樹も道端の花も、何もなかったかのように静かに佇んでいる。ウルリックの名前を呼んでも、自らの声が木霊するだけだった。 ジークフリートはとりあえず、一足先に湖へ向かうことにした。そこでウルリックを待てばいいと思ったのだ。 ほどなくして湖のほとりに着くと、たくさんの白鳥たちが身を寄せ合っていた。まだ小さな子どもの白鳥が、大きな白鳥たちに守られるようにして泳いでいる。 白鳥たちがおびえないように、ジークフリートは少し離れたところに腰を降ろした。 穏やかな湖畔で、白鳥たちを見ていると、あと数日で見知らぬ女性を妻として娶らなければならないことなど嘘のようだ。 誰のことも好きになったことなどない。 皇子である自分の周りには、こびへつらう貴族か、従順な召使いしかいない。ウルリックだけが気の許せる相手だった。貴族の子女たちは、あわよくば后の座に、という思いで、事あるごとに着飾っては近づいてくる。 どれほど美しかろうと、心根が優しかろうと、ジークフリートには何かが足りなかった。一度でいいから、寝ても覚めても相手のことを思い、眠れないという経験をしてみたかった。 そんな感情を経験することなく妻を娶り、その女性を一生愛し続け、子を成さなければならない。 いっそ庶民として生まれていれば、と思う。親友のウルリックにも意中の娘がいる。ジークフリートには一生知り得ない感情を、その娘と通わせているのだろう。 「恋焦がれるとは・・・どんな気持ちなのだろうか」 亡き父が聞けば、一国の皇子、それも十八にもなった男子が何を情けないことを言っているのだと言うだろう。皇族に生まれたからには当然だと、ジークフリートだって本心では解っている。 と、湖面がざわつき、白鳥たちが羽根をばたつかせ始めた。風もない。しかしざわざわと湖面が揺らぎ、白鳥たちは鳴き声を上げて右往左往している。何故か飛び立とうとはせず、まるで足を湖の底に鎖で繋がれたような動きだった。 「・・・・・・えっ・・・」 白鳥たちに変化が訪れた。苦しそうにもがいているかと思うと、一羽、また一羽と大きく羽根を羽ばたかせ、その姿があろうことか、人間の姿へと変わっていく。 白い翼は腕に、そして胴体、脚と、じわじわとその姿は人のかたちを作ってゆく。金色の髪のもの、黒い髪のもの、白い肌のもの、褐色の肌のもの・・・ほんの少しの時間で、数十羽いた白鳥たちは一羽残らず人間の、一糸纏わぬ若い男の姿に変わった。 中にはまだ十五にも満たない少年の姿もあった。 「・・・そんな・・・ばかな・・・」 思わずジークフリートは樹の影に身を隠した。男たちは次々と湖から出て行く。さらに不思議なことには、湖から脚を一歩踏み出すと、彼らの足下から光が空に立ち昇り、その光に包まれた彼らはいつのまにか上等な服を纏い、涼しい顔で陸に上がってゆくのだ。髪の毛一本濡れておらず、ずっとその場で湖を眺めていたようにすら見えた。 「どういうことだ・・・?」 誰に尋ねるでもなく、ジークフリートはつぶやいていた。 人ではない者の存在は知っていた。父が存命の頃には、城を攻め入ろうとした「妖かし」を退治したという話をよく聞かされていた。しかし実際に目の当たりにしたのは、これが初めてであった。 だが彼らは、人間の姿をしている。まるでジークフリートひとりが幻覚を見たのだ、とでも言わんばかりに、彼らは談笑したり、湖のほとりで座り込みどこから持ってきたのか本を読み耽っている者までいる。 ここにウルリックがいれば。 いや、それよりも先ほど、射るのをやめてよかった。もし矢が命中していたら、彼らのうちのひとりを射殺していたかもしれないのだ。 ぞっとしながら、ジークフリートは固唾を飲んで彼らの姿を盗み見ていた。 すると先ほどのような突風が吹いた。 再び木の葉が舞い、なんと湖の水まで巻き上げられている。湖の中心に大きな竜巻が立ち上がり、ジークフリートは強風に飛ばされないように樹にしがみついて耐えた。 しばらくして風がやみ、きつく閉じていた瞼をおそるおそる開けると、竜巻が見えたのは幻かと思えるほど、湖面は静まりかえっていた。 そして驚くことに、白鳥から人間に変化した青年たちは、湖のほとりで片膝をつき、湖の中心にむかって頭を垂れていた。 ジークフリートは、彼らの視線につられて湖面を見た。そこで、最も驚くべき光景を目にした。 そこには黒鳥ーーーーー白鳥と同じ姿、しかし羽根が黒い、大きな美しい鳥が降りたっていたのだ。 艶のある美しい漆黒の羽根に包まれた、ほかの白鳥たちより一回り大きな体躯。その黒鳥は翼を左右に広げると、細く長い首をもたげた。 すると、目も絡むようなまぶしい光があたりを照らし、ジークフリートは咄嗟に目を覆った。 三度瞼を開けたジークフリートは、呼吸を忘れ、立ち尽くした。 黒鳥は、白鳥たちと同じく、一糸纏わぬ姿の人間の姿になった。そしてどうしたことか、湖面に立っているではないか。 真っ先にジークフリートの目を奪ったのは、足首まで覆っている長く艶のある黒髪だった。東の空に上がり始めたばかりの月の光を取り込み、宝石を散りばめたようだ。すらりとした手足には美しい筋肉がついている。 「彼」は、額にかかった髪を優雅な手つきで除け、つと顔を空に向けた。その時ジークフリートが見たのは、あまりにも端正な横顔だった。 その瞳は、湖と同じサファイアブルー。 漆黒と青のコントラストに、ジークフリートはただ見惚れた。 彼が初めて心を奪われた瞬間であった。
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