3.名

1/1
前へ
/18ページ
次へ

3.名

その美しい青年は濡れた長い髪を、首を大きく左右に振って弾き飛ばした。人のかたちをしているのにも関わらず、その仕草は非常に動物的だった。 彼は滑るように湖面を歩き、陸へと上がった。その他の若者たちと同じく、つま先が陸に乗った瞬間に、装飾の施された上等な服が彼の身体を瞬く間に覆った。突然現れたその服は、上等な絹で出来ているであろう豪華なものだった。しかしよく見るとそのデザインは最近のものではなく、城に飾られている肖像画に描かれた歴代の王たちが纏っているものと似通っていた。 ジークフリートは彼の輝かんばかりの美しさに目を見張った。 周りを囲む若者たちもジークフリートと同じように彼に熱視線を送っている。しかし彼はそんなことを気に留めるでもない。 ジークフリートは彼に目を奪われるあまり、いつしか勝手に脚が動いていた。大きな樹の影に身を隠していたが、一歩、また一歩と湖に近づき、とうとう若者たちのひとりに気付かれてしまった。 「誰だ?!」 若者たちの視線が一斉にジークフリートに注がれれた。はっと気付いた時には遅く、若者たちの何本もの剣の切っ先に囲まれていた。彼らはあからさまな敵意をジークフリートに向けていた。 「ここで何をしている?!」 「ぼ・・・僕は・・・」 「弓を持っているな。我らを撃つつもりだったのか?!」 「ち、違う、これはっ」 ジークフリートは慌てて弓を背中に隠した。しかし若者たちは気色ばんで、さらに詰め寄ってくる。一人の青年がジークフリートの着ている服を見て、こう言った。 「この身なり・・・城の皇子では?」 その言葉に、他の青年たちがどよめき立つ。 彼らはなぜ皇子が、と顔を見合わせた。が、剣の先は依然ジークフリートの鼻先を捕らえており、解放しようという気はないようだった。 「どちらにせよ、見られたからには生きて返すわけにはいかない」 ジークフリートの身分に気付いた青年は、剣の向きを変えた。そしてその刃をジークフリートの顎の下に滑らせた。 ジークフリートは、命の危機を感じた。冷たく光る刃は既に首筋に押し当てられている。弓しか持っていない、それを構える隙も与えられない。声も出せない。 ここまでか、とジークフリートが強く瞼を閉じた瞬間。 「やめよ」 叫ぶでも怒鳴るでもなく、しかしその声はその場に居る者たち全てに響いた。 ジークフリートはそっと瞼を開けた。 剣を突きつけていた青年たちは、腕をそのままに湖のほとりを振り返っていた。 そこにはあの、青い瞳の男が立っている。 男が青年たちの中でも最も身分が高いであろうことは明らかだった。その彼の声が、ジークフリートの命を救ったのだ。 「・・・心配せずとも他言はしまい。もっとも、こんなことを誰が信じるというのだ」 「ですが、のさばらしておくのは危険です」 「今更これ以上危険なことなどあるものか。人間ひとりに知られたからとて、我々の運命が変わるわけでもない」 「しかし!」 「捨て置け」 美しい男は、冴え冴えとした青い瞳でジークフリートを見据えた。何の表情も読みとれないその顔は、あまりにも美しく、そして恐ろしかった。 なのにジークフリートは、その恐怖を振り切って叫んでいた。 「あ・・・あの、あなたは・・・っ」 呼びかけに応えたのは剣を携えた青年たちだった。再びジークフリートの喉元に鋭利な刃先が突きつけられた。もう猶予がない。 「お前などに我ら主の御名を知る権利などない!」 今度こそその切っ先に喉をかき切られるとジークフリートは覚悟した。なぜなら、今までよりも格段に青年たちの殺気を感じたからだった。 この時代、「名前」を知るということは、その人間の身分を知ることに等しい。身分の低い者が自分よりも高貴な立場の人間に話しかけること自体、禁忌だった。 が、ジークフリートはこの国の皇子である。彼よりも高貴な立場の人間などいない。 しかし美しい男の佇まいから、ジークフリートは自然に、彼が尊い存在であることを感じ取っていた。 青い瞳の青年はジークフリートと視線を合わせた。瞬きも、呼吸することさえ忘れ、ジークフリートは命がけでその青を見つめ返した。 「・・・我が名はマクシミリアン。マクシミリアン・ライノア・フォン・ロットヴァルト。・・・では、これで失礼する。・・・ジークフリート皇子」 マクシミリアンと名乗った青年は長く美しい髪とビロウドのマントを優雅に翻した。 すると彼が現れたときと同じく、竜巻が起こり木の葉も湖の水も空高く巻き上げられてゆく。近くの樹に必死でしがみつき難を逃れたが、瞼を開けたとき、マクシミリアンも、ジークフリートを囲んでいた青年たちも、忽然と消えていた。 湖面も嘘のように穏やかだ。 いつしか夜が明け始めていた。 明るくなりはじめた空を見上げると、白鳥の群と、それを先導するひときわ大きな黒鳥が、湖の上空を旋回して、古城へ向かってゆくのが見えた。 「なぜ・・・僕の名を・・・・・・?」
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

67人が本棚に入れています
本棚に追加