絢爛たる嘘は月影にも似て

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 ある時、いつものように彼女の楽屋で僕らが暇をつぶしていると、突然怒鳴り込んできた人がいた。それは、僕の母だった。  母はそこに飛び込んでくるなり、ベルの美しくセットした髪を引っ掴み、頬を思い切り叩いた。ベルの鼻の下に赤い血が一筋滴るのを見るや、マルチェロはするりと部屋を抜け出して、甲高い声で、誰か来て!と叫んだ。だが僕は、その場から一歩も動くことが出来なかった。僕の身体はその場で凍り付いたようになってしまったのだ。  当時、母は僕の妹を身籠っていた。大きな腹を抱えながらも、ベルの反撃にも怯むことなく殴りかかり、その間じゅう罵詈雑言を浴びせかけていた。ベルが、自分の履いていたハイヒールを脱いで母に向かって投げつけ、化粧台に置いていたガラスの灰皿を振りかぶった時、僕の父がサンドロを伴って部屋に入ってきた。  ベルの頬は腫れあがり、とても舞台に立てるような状態ではなかったが、彼女はどうしても舞台に上がると言って泣き喚く。興奮冷めやらぬ母はサンドロによって別の部屋まで引きずって行かれた。  僕はベルの楽屋で、椅子にもたれる彼女と、彼女に寄り添う僕の父の後ろ姿を見ていた。父は金の結婚指輪を嵌めた手で、ベルの頬や、服を裂かれて露になった肩を、優しく撫でていた。僕はそれを見て、噂は噂でなく、真実だったのだと確信した。 「代役は立てないで。お願い。誰にも代わりをやらせないなら、今夜は諦めるから…」 「わかった。わかったよ」  僕は、父のその返事を聞き終わらないうちに、外へ出て扉を閉めた。  母の泣き喚く声が、どこからともなく聞こえてくる。大小合わせて五つある楽屋の扉はすべて開いていた。みな戸口に立ってベルの部屋の方を見ていたから、僕は全員と目が合ったような気がした。  すでに化粧を済ませて、衣装まで着込んでいる者がほとんどだった。かつらを被る前の者や、小道具のジュエリーを指先で弄んでいる者もいた。いずれの人も、僕の顔を見るなり、その目の中に同情の色を浮かべた。
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