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自転車を降りた浜辺だった。
朝日が波打つ湖面にキラキラと反射する。冷たい風が髪をさらっていく。
「大丈夫ですか?」
ふりかえると、昨夜会った男の子が立っていた。
ブレザーにネクタイとうどこかの学校の制服を着ている。
そういえば、真夜中の修ちゃんも制服を着ていた。
「……今の何?」
「あなたが、取り戻したいと思った記憶です」
「記憶……」
咲は、そっと両手を見た。
「何かをきっかけに、忘れてはいけないことを忘れてしまっていると、気が付いたのではありませんか?」
引き出しの奥からでてきた「ごめんね」で始まる修ちゃんへの手紙。
「修ちゃん」にまつわるすべての記憶。
楽しかったことだけではない、すべての記憶。
修ちゃんが死んだんは、私のせいや。
体が弱くて夜にでかけたことがないことを知っていたのに。
夜の湖が寒いことも知っていたのに。
ごめんね、ごめんね。と泣きながら書いた手紙。
渡す前に訃報が届き、すべてを封印した。
手紙を引き出しの奥に入れたのと同じように、記憶を心の一番奥に閉じ込めた。
そして、のうのうと生きてきた。
視界がぼやける。涙があふれ、音もなく頬を伝う。
「…あなたは、だれなん? 修ちゃんはもういいひんはずやけど」
咲は、涙をぬぐうことなく、まっすぐに修ちゃんを見つめる。
修ちゃんは、しっとりとほほ笑んだまま答えない。
「修ちゃんの幽霊なん?」
「幽霊でも、会いたいですか」
「……わからへん」
修ちゃんはゆっくりと近づき、咲のポケットに手を入れた。
「この石は、人の苦しみや悲しみを吸って大きくなります」
そう言いながら、ポケットからそっと石を取り出す。
石は赤く、卵くらいの大きさになっていた。
「そして、大きくなったこの石を山に持ち帰るのが私の役目です」
「なんのために?」
修ちゃんは、表情を変えずずっとほほ笑んでいる。
「さあ。なんのためなんでしょう」
「その石を持ってたら、この悲しい気持ちをもっと吸ってくれるん?」
咲は石に手を伸ばす。
でも、石は熱を帯びていて、とても触れられそうになかった。
卵ほどだった石は、テニスボールほどまで大きくなっている。
「石にも限界がありますから」
修ちゃんはそう言って、まっすぐに咲を見た。
「忘れていたほうが、よかったですか?」
咲は、だまって修ちゃんを見つめ返す。
「石が吸った悲しみをお返しし、記憶と共に、もう一度心の一番奥に眠らせてしまいましょうか」
それは……。
ザザンザザンと波の音がリフレインする。
ユキヤナギの枝が揺れ、悲鳴に似た音をたてた。
耳元で風があばれる。
その音にあわせるように、制服のスカートがバサバサとはためいた。
長い時間だった。
修ちゃんは、ただだまって佇んでいた。
「私……」
咲はグッと力をいれて、涙をぬぐった。
「忘れたくない」
「わかりました」
修ちゃんは、石を制服の内側にしまった。
「集めた石は、浄化して冬の終わりに風にします。風は、冬の間に滞ったものをなぎはらいます」
修ちゃんは、静かに続ける。
「でも、その風の後には、必ず春が来ます」
風が舞った。修ちゃんの髪がゆれる。
微笑んだその顔に、右側だけのえくぼが見える。
「なんで、そんなに修ちゃんに似てるん?」
「私の顔は、見る人が一番会いたい人の顔に見えるのです」
「一番……会いたい人?」
「何かを伝えたいとか、何かを言ってほしいとか、見る人が一番思いを持っている人の顔に見えるのだそうですよ」
咲はうなずいた。
渡せなかった手紙。届かなかった気持ち。
「修ちゃん」
思わず、そう呼んだ。
目の前の修ちゃんが、あの夜と同じ姿になった。
1年生の、まだあどけない修ちゃん。
「咲ちゃん、遊ぼう」と言って、いつも後ろをついてきた修ちゃん。
毎日一緒に遊んだ。毎日一緒に学校に通った。
世話のやける弟みたいな、かけがえのない大切な存在だった。
修ちゃんが、あの頃と同じ顔で笑った。
その顔が、涙でぼやけた。目を閉じた。
「ごめんね。でも、夜の冒険楽しかったよ。元気になったらまた一緒に遊ぼうね」
手紙には幼い文字でそう綴られていた。
あの頃の咲の精一杯の言葉。
小さな修ちゃんは、笑顔のまま、見えなくなっていった。
咲は、山を見上げた。
彼は、言った。
「風の後には、必ず春が来ます」
自転車にまたがると、ゆっくりとペダルをこいだ。
おわり
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